人生に意味はあるのか? カミュ『シーシュポスの神話』を読んで
ある知人がカフェで私に、「ある日から、人生に意味が見出せなくなった」と語った。
「特にきっかけがあるわけじゃない。ただ、その日までなんとなく感じていた人生の意味みたいなものが、まやかしであることに気づいてしまったんだ」
なんとなく彼は寂しそうで、「違うよ。人生には意味があるよ」という言葉を求めているような気がした。
私の父は高校時代にカミュを読んで以来、ペシミストになったと言う。当時図書館に通い詰めていた父は、書棚に並んだカミュの「ペスト」を読んで衝撃を受け、以来キルケゴールやサルトルの実存主義にのめり込んだ。「カミュは読まない方がいい」、口を酸っぱくして父は語った。
そんな理由で私はカミュに手をつけていなかったのだが、最近、カミュの「シーシュポスの神話」を読んで、はからずも胸が打ち震えるような感覚を覚えてしまった。
「死ぬな、生きろ」。それが一見ニヒルに聞こえる彼の文章の背後から溢れ出てやまないメッセージだった。
人生は不条理に満ちたものであり、その不条理こそが人間の本質であり、その世界に抗い続けることこそが人間の自由である、そのメッセージの中に私は、人間という存在への、一切の偽りのない信頼と愛を感じた。
今、息子である私の視点から見ると、むしろカミュの思想こそが、生来のニヒリストである父親が鬱と折り合いをつけながら生きてこれた理由だと感じる。
私自身も、父に似てニヒリストとならざるをえなかった。ここでいうニヒリストとは、ただ単に人生の無意味さという深淵を覗き込んだ者という意味ではない。むしろその無意味さと不可解さの中に、くめども尽きぬ人生の無限の味わいを感じ取る者である。
この世界の不可解さを不可解さのままに愛せる人になりたい。
この人生の無意味さという、圧倒的な深淵を覗き込んだ上で、それでも隣人を愛せる人になりたい。
人生に意味はあるのか?
それを命を懸けて考えている人が好きだ。その真剣さに情熱と、人間への愛があるなら、たとえその人がどんな結論に至ろうとも、私はその人の意見に真剣に耳を傾けたい。
そして私の現段階の意見としては、こう答えたい。
「人生に、私の求める意味はない。だが、意味を超えた意味がある、この不条理な人生という一幕の劇を、私という役者が最後まで演じきることの中に」