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日本語の美しさを凝縮した珠玉の一片ー幸田露伴『五重塔』書評

『努力論』で有名な幸田露伴は、難解な文体で知られる。

古文を模した「擬古文」という名のスタイルで、古文漢文が苦手な人にとってはアレルギーが生じること確実と言っても良い文体である。本書『五重塔』を初めて開いた方は、1ページ目に一つも「。(句点)」が出てこないことに驚くだろう。

だが、そこでページを閉じて欲しくない。

慣れてしまえば、露伴の文章は決して理解を拒絶する種類のものではない。いやむしろ、驚くほど美しくウィットに富んだ「国宝級」の文章であることに思い至るだろう。

『五重塔』は、あらすじを読んで語れる種類の小説ではない。文庫版で百数十ページの掌編で、ストーリーだけ説明されてもその魅力は伝わらない。文章の流れに身を浸し、味わい尽くしてこそ初めて、露伴先生が物語の背後に織り込んだ克己的人生観が胸に染み込んでくる。

一体この小説のどこに、例えようもないその美しさが宿っているのだろうか。この記事ではいくつかの点について分析を試みたい。

まず、『五重塔』の文章の大きな特徴として、「リズムの良さ」がある。先ほど言ったようにこの本では句点が極端なほど削られ、人物の動作やセリフなどがうねうねと流れるように読点で繋がれていく。現代人の感性からすると一見奇妙に見えるこの文体が、声に出して音読をしてみると一転、素晴らしく流麗な音楽となって流れ出すから不思議だ。七五調が随所で顔を出したり、語末では必ず『オチ』のような終わり方をしたり。落語を聴いているような気分になる瞬間もある。何度も何度も繰り返し、できれば諳んじたくなるほど、美しく小気味いいリズムなのだ。私がこのような感動を日本語で書かれた文章に対して覚えたのは、小学生の頃KUMONの国語で『平家物語』に出会って以来初めてである。もちろん受験時代も古典は勉強したが、『平家物語』において顕著に見られる、流れるような、それでいて飄々とした、どこか素朴なユーモアが漂う文体にはお目にかかることが少なかった。この文体の成立には、『平家物語』が琵琶法師の弾き語りによって語り紡がれてきたことが関係しているのだろう。とにかく音読に適した文章として『五重塔』ならびに『平家物語』に勝るものはないのではないか。(日本文学史に対する理解が浅いのでまだ何とも言えませんが。)

また、注目すべきは本書に登場する形容詞の豊富さと、それらが全て「やまとことば」で綴られている点である。常用漢字には出てこない漢字のオンパレードのような『五重塔』だが、それらの漢字の横には全て「やまとことば」による「読み仮名」が振られている。これらはいずれも、露伴という作家の中で、漢文学的素養と「やまとことば」の世界が美しく融合した結果として生まれてきた、宝玉のような形容詞群である。そして、露伴先生の偉大なところは、これほどの教養を持ちながら、それをひけらかそうという衒学的な匂いが一切感じられない点にある。全ての形容詞が、それが用いられるのに最もふさわしい場所で、必然的に用いられているのだ。擬古文といえば最近では平野啓一郎という作家が有名だが、平野氏が20代前半に書いて伝説となった『日蝕』という中編もその流れを汲む一つである。『日蝕』を読んでみて、その知的研鑽には見上げるものを感じたが、どうしても衒いを感じてしまう箇所がいくつかあった。「どうしてそこでわざわざそういう難しい漢字を使うわけ?」という疑問が湧いてしまうのだ。(もちろん今の私に、平野氏を批判する資格など備わっていないが。)「擬古文」と聞いて思い浮かべるのは、おそらく大抵の場合そのような、「簡単なことをあえて難しい言葉を使って知識をひけらかそうとしている」という印象だろう。しかし、露伴先生はそうではないのだ。ただ自然に、心の赴くままに表現すると、必然的に深い教養に裏付けられた国宝級の形容詞が生成されるのだ。何という文学者だろうか。

ともあれ、この『五重塔』の魅力を、一人でも多くの日本人の方に伝えたい。

数ヶ月間ラテン語をかじってみて感じたのは、「そういや日本にも古典あるじゃん」という単純な事実だった。ヨーロッパの人々はラテン語やギリシア語に自分たちの文明の原点を見出す。しかし、私たちには「古文」がある。「漢文」がある。尽きることのない永遠の泉がある。これを学ばずして、日本人としての一生を終えるのは、あまりにも勿体無いのではないか。

私はこの珠玉の短編に触れて、「日本人として生まれてよかった!」と心の底から叫びたくなった。この文章の美しさ、それを理解できる日本人としての誇りが、胸の底から突き上げてきた。そして、今となっては過去の遺物として忘れ去られつつある「古文」の中にこそ、日本語の本当の美しさが眠っていることに気付かされた。

再び、日本の古典の世界へ。

西洋哲学をかじったからと言って、バタ臭い日本人にはなりたくない。

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