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【映画評】『博士と狂人』/世界最高の辞典を編纂した男たちのロマン

去年12月に公開された『博士と狂人』を観てきました。

なんてったってメル・ギブソンとショーン・ペンという二人の大御所アカデミー賞俳優の豪華共演ですからね。
観ないわけにはいかなかったんですよ!

というわけで、早速参りましょう!

『博士と狂人』ってどんな映画?

本作はアメリカで2019年に公開されました。全米でベストセラーになったノンフィクションを原作に、イギリスの名門オックスフォード大学が出版している世界最高の辞典『オックスフォード英語大辞典(OED)』の誕生秘話に迫っていきます。主演は『ブレイブハート』で有名なメル・ギブソンと、『I am Sam』のショーン・ペン。どちらもアカデミー賞受賞的のある大御所俳優です。

登場人物紹介

本作の主人公は、タイトルの「博士と狂人」という言葉の通り、どこからどう見ても対照的な二人の人物です。

『博士』/ジェームズ・マレー

50万語を超える膨大な語彙を収録した『オックスフォード英語大辞典』編纂の最初の責任者を任された、実在の人物です。幼い頃から勤勉で博学でしたが、家族の生計を立てるために学問の道を諦めます。

しかし、彼が欲したものは「Only the most diligent life(もっとも勤勉な人生、それだけ)」でした。

彼は学歴を言い訳にせずにコツコツと勉強を続け、世界最高峰のオックスフォード大学の教授たちに負けないくらい、いやそれ以上の言語学の知識を習得します。

--- I am an autodidact, self taught.(私は独学人間です。)

一体どれだけの言語をマスターしたのか? 本人に語らせてみましょう。

---I am fluent in Latin and Greek, of course.(ラテン語とギリシア語は流暢に喋れます、もちろん)

Beyond those, uh, I have an intimate knowledge of the Romance tongues, (加えて、ロマンス諸語に関する精密な知識を持ち、)

Italian, French, Spanish, Catalan and to a lesser degree (イタリア語、スペイン語、カタルーニャ語、そこまでは行かずとも、)

Portugese, Vaudois, Provencal and other dialects.(ポルトガル語、ヴォー州方言、プロヴァンス語やその他の方言、)

In the Teutonic branch, I am familiar with German, Dutch, Danish and Flemish.(チュートン語派ではドイツ語、オランダ語、デンマーク語、フラマン語にも親しみ、)

I have specialized in Anglo-Saxon and Moeso-Gothic(古英語およびモエシアのゴート語については専門的知識を持っています)

and have prepared works for publication on both these languages.(この二つの言語についてはいつでも出版できる状態の論文があります)

I also have a useful knowledge of Russian.(ロシア語についても実用的知識を持っています)

I have sufficient knowledge of Hebrew and Syriac(ヘブライ語とシリア語については十分な知識を持っており、)

to read at sight the Old Testament and Peshito.(旧約聖書とシリア語訳聖書を読めます)

And to a lesser degree, uh, Aramaic Arabic, Coptic and Phoenician(それには劣れども、アラム・アラビア語、コプト語、フェニキア語を……)

一体どこまで行くんだ!笑

これほどの知識を持った人が辞書を編纂していたとは。人類の知的遺産を遺して下さったことへの感謝に頭が下がります。

このマレー教授はしかし、学歴がないことが唯一の弱点。それに加えて、強いスコットランド訛りのせいで田舎者であることがバレます。その結果、正統派の秀才たちに嫉妬を受け、嫌がらせや困難にが百出。でも、そうした障壁は、誰もやったことのない巨大な辞書の編纂という圧倒的な使命に比べたら些細なものですが……。

『狂人』/W.C.マイナー

さて、学歴は持たないながら正統派の努力家であるマレー教授に比べたら、「狂人」のマイナー氏の方はかなり天才肌です。印刷業を営む父の下で良質な教育を授けられますが、若い頃に南北戦争に外科医として従軍した経験がトラウマになって精神異常をきたし始めます。当時の戦時医療はそれはもう酷かったそうで(麻酔なんてものはありません!)、兵器は進化してドンパチやってるのに看病が乱暴だからもう大変。そりゃ、トラウマになってもおかしくないですね。精神錯乱の末、街で殺人を犯して逮捕され、半永久的な形で牢獄で「治療」を受けることになります。

人生に絶望していたマイナーに届いたのが、オックスフォード大学から全英国国民に送られた一通の通知。「オックスフォード英語大辞典」の編纂に力を貸して欲しい、という内容の手紙でした。この、突如舞い降りた福音に対するマイナーの思いを綴った文章がこちら。無知を「暗闇」、それを照らし出す知恵を「光」に例えた芸術的な表現です。

---I have been much acquainted with that darkness.(私は長いこと暗闇に見慣れてきた。)

Thank you...For letting me lend my light to yours.(私の光を君の役に立たせてくれてありがとう。)

Together we shall shrink the darkness until there is only light.(光だけになるまで、ともに暗闇を小さくしていこう。)

「オックスフォード英語大辞典(OED)」ってどんな辞典?

ここで「オックスフォード英語大辞典(以下、OED)」の特徴について軽く説明しましょう。通常の時点と異なり、OEDでは言語の「用例」を徹底的に重視します。つまり、「この時代のこの作家が、こういう文脈においてこの単語を使った」という実例を徹底的に調べ上げ、ある単語の誕生と変容の歴史を記録するのです。「この単語の意味はこれ」という単純な定義が記された普通の辞書と比べて、なんだか単語という「生き物」を収録している図鑑みたいで、ワクワクしませんか?

---The book must inventory every word, every nuance, (この本には全ての単語のすべてのニュアンスを収め、)

every twist of etymology and every possible illustrative citation from every English author.(語源学のあらゆる紆余曲折や、全ての英語作家によるすべてのありうる特徴的な引用を収める。)

マレーさんはいくら博学とはいえ、この実例を一人で調べ上げるわけにはいきません。そこで導入したのが元祖・Wikipedia的手法。多くの人々の力を借りるのです。

---A dictionary by democracy. (民主主義による辞典、)

Still edited by us. Learned men.(それでもやはり編集するのは、我々教養人だ。)

これぞ本物の英語。教養に満ちた台詞と手紙たち

この映画の大きな見所の一つは、「博士と狂人」、対照的な性格の二人が、「辞書の編纂」という一つの巨大な事業の達成に向かって強い友情で結ばれていく人間ドラマです。

特に、英語を愛する二人の間で交わされる会話や手紙の中身が、美しすぎる。

まず、マレー博士から獄中のマイナー氏に送られた手紙。

---Let paper and ink be our flesh and blood until we are privileged to meet.(合間見えるその日まで、紙とインクを我らが血肉としよう。)

精神病に苦しめられるマイナー氏が、読書の楽しさについて語った象徴的な台詞。

---When I read, no one is after me. When I read, I am the one who's chasing. Chasing after god.(読書をしている時だけは、誰にも追いかけられない。私が追いかける側に回るんだ。神を追いかけるのさ。)

マレー氏が自身の夢について美しく語った台詞。

---To offer the world a book that gives the meaning of everything in God's creation. Or at least the English part of it. (神が創造した全てのものの意味を与える一冊の本、それを世界に提供したい。少なくとも、英語の範囲で)

どれも、日本語に訳すのがもったいないくらい美しい表現ばかりです。教養のある方の英語って、やたらと難しい言葉ばかり使うわけじゃないんですよね。誰でも使っているようなシンプルで日常的な語彙を、芸術的に組み合わせています。言葉の達人は「大和言葉」を使いこなすのですね。

最後に

私自身、英文学に強い興味を持っていたせいか、辞書編纂に自分の人生の全てを賭ける男たちのロマンに胸打たれ、観ていて涙が止まらなくなりました。人類の知的遺産のために身を粉にして働く彼らは、時間を超えた「永遠」の世界を明らかに見つめています。

英語という、一つの言語の中に、それを話して暮らしてきた人間の営みの全てが凝縮されています。だから言語を学ぶことは歴史を学ぶことであり、人間の文化的営為のあらゆる側面を学び尽くすことでもあります。

オックスフォード英語大辞典は、大英帝国が後世に残した唯一の遺産と呼ばれるようになるとも言われているそうですが、この一大事業はまさに「人類の偉業」でした。

マレー博士のような大学者を目にすると、何だか最近の大学教授が頼りなく見えてきます。書店に並んだ本のタイトルを見ても、「1分でわかる」とか「これ一冊で簡単」だとか……何だか、どんどん軽く、速く、イージーな方向に流れていってますよね。便利すぎる生活の中に、夢もロマンも生まれません。

「本当に、人類にそんなことができるの?」

そういう、本当の意味での「チャレンジ精神」。

それを辞書編纂という分野で成し遂げたのが、マレー博士とマイナー氏という二人の知的巨人でした。

彼らに続いて、人類の知恵の大河に一滴でも付け加えることができる人間を目指したいものです。

それではまた!

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