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Gutsヒロのスイーツ・ストーリー「調理師専門学校の製菓コース篇」
こんにちは、Gutsヒロです。「Gutsヒロのスイーツ・ストーリー」へようこそ!私のブログに来ていただきましてありがとうございます!この記事を見た方には興味を持って頂ければ幸いです。
1.困難への挑戦
フランス料理と洋食の仕事で2回目の入院をして統合失調症と診断されめちゃくちゃな20代でした。29歳になって20代最後の決心をします。それは調理師専門学校への入学。
お菓子作りはフランス料理の仕事の時にもやっていました。アシェットデセールという皿盛りデザートのことですが私はお菓子の見込みがあってデザートに関してはよく任されていました。しかし、シェフからはレシピは頂けず「自分で考えてやれ」と言われてやっていました。あの頃はネットにレシピや動画はなかった頃で主に本を見て勉強をしました。わからないお菓子は手探りでレシピを作っていました。
中でもロールケーキのストーリーでは、小麦粉や卵を10gずつ増やしたり減らしたり調整して1日3回以上、家で試作して焼いて練習をしました。もちろん生クリーム泡立てて塗って巻くのですがどうしても生地にヒビが入ったり、割れてしまったりしました。オーナーシェフに聞いてもコツなどは教えてもらえず、とあるケーキ屋さんのロールケーキのように作れと言われました。そこのケーキ屋さんと自分の作るロールケーキを比べて何が悪いのか調べました。試作をする度にそこのケーキ屋さんのロールケーキを買うのですが週3回は最低通ってました。そして2ヶ月も経った頃、そこのお菓子屋さんにいつものようにロールケーキを買おうとしたらシェフらしき人が裏からやってきて私に話しかけてきた。
「何で毎週何度もうちに来てロールケーキを買うんですか?」
と。私は正直に言いました。
「フランス料理のお店で働いていてロールケーキを作るように指示されたが作れないので、自分の作ったロールケーキと比べて勉強させて頂いております。」
そのシェフは真剣に話を聞いてくれて「ちょっと待ってなさい」と言い、再び現れたシェフの手には大量のお菓子の本があった。そして、そのシェフは、
「これをあなたに貸します。返すのはいつでもいいですよ」
その本は、値段の高い専門書で見たこともないすごい本ばかりだった。私は、申し訳なさもありましたが、とても感謝して持ち帰って借りた本を全て読み、全てコピーしました。そして、その甲斐もあってロールケーキが巻けるようになりました。
2.シェフからの試練
私は自分の知識や経験が浅いことを痛感した。それから「趣味」から「仕事」の姿勢にお菓子作りをシフトチェンジしました。しかし、それがフランス料理をやりながら、お菓子も覚えるというのは人間のキャパシティの範疇を超えることでもあった。両立するのは体力的にも精神的にも、そして時間、金銭面でも苦労しました。それでも半年ぐらい頑張って浅く広く覚えていってシェフの要望にはそこそこ応えれることができるようになりました。
しかし、期待に応えると更に要求されるレベルも当然上がってきます。ある日、本やネットにもないケーキを要求された。それはシブーストというお菓子。シェフにレシピを求めたが「そのぐらい自分で調べてやれ」と相手にしてくれなかった。シェフの奥さんがケーキ屋に置いてあるかもしれないから探すように言われた。地元とその周辺の町のケーキ屋20軒は回った。当然、お店に入ったからには義理でケーキを買った。私は最終手段として、ネットで過去にシブーストを出したと記録があった店舗に直談判した。作ってもらえませんか?と。言った途端、店主の人にめちゃくちゃ怒られた。冷やかしに見られたのかもしれないし、図々しいのも理解してた。私は謝罪して後にした。
次の日にシェフに事情を言ってシブーストは作れないと言った。シェフは「お前は努力が足りない」と言われ100km先の街のケーキ屋に行ってシブーストを探して食べてこい、出来ないならお菓子はもう作らせないと言われた。私は、もう貯金も所持金もほぼ尽きていた。もう休日はあってないようなことが1年半続いていた。しかし、仕事を続けるためにはシブーストを食べる使命を果たさないといけなかった。私は遠い街に向かった。
しかし、道中で目眩と動悸を起こして汗が止まらなくなった。頭も真っ白になって車の運転ができなくなりました。道路の端でそのまま落ち着くまで耐えた。落ち着いた頃には夕方になっていた。私はシブーストを探すことすらできず帰宅した。無力な自分を責めた。明日、シェフになんて言えばいいのか?なんて言われるのか恐怖でその日は一睡もできなかった。朝を迎えてしまって体調と精神状態がとても悪かった。何より、シェフに会うのが怖かったし合わす顔もなかった。
その日、初めて店を休んだ。
電話でめちゃくちゃ怒られた。急に休んで迷惑かけているのが理解しているのか、今すぐ来いと言われた。私は泣きながら懇願するように休みをもらえるよう必死に訴えてようやく休みを貰えた。しかし、やっと地元でトップクラスで人気のある店で働けるチャンスを棒に振るってしまったことに後悔と情けなさにもう死んでしまいたいと思った。その間に母が気を回して精神科の病院に問い合わせてくれて早急に病院に来るよう言われた。廃人のようになった私は働くことをドクターストップされた。しかし拒んだ。今、仕事を本当に辞めてしまったら何もかも失うと恐怖したからだ。私はそれを言った瞬間、病院スタッフの5人に抱えられ入院病棟の鍵付き部屋に入れられた。
これが前のブログに書いた2度目の精神科病院の入院の内容です。今ではシブーストというお菓子は作り方もバリエーションもあるのは知っていますし、オリジナルでレシピも書けるぐらいになっていますが、シブーストって聞くと今でもトラウマで恐怖を覚えます(^^;)
3.未来への一歩
しかし、このフランス料理店のシェフとの経験や、精神科病院の入院をした事が、私の人生において後々の将来、お菓子のレシピが書けるまで成長ができ、それらを繋ぐことができたのは29歳で調理師専門学校の製菓コースを入学したからである。私の未熟ながらも頑張ってきたことや精神疾患になりながらも必死に続けてきてボロボロでも報われたのは調理師専門学校の生活を送ったからこそだった。しかし、学校に行くためのお金や生活の問題もありました。それを解決したのは私の努力を間近で見ていた家族と親戚、そして病院が全面的サポートをしてくれた事だった。私は絶対に圧倒的な首席で卒業する事を決意した。それが私に出来る唯一のことだと思ったからです。
そして、私は2年間の学校生活は無遅刻無欠席、学科試験オール1発合格、実技試験6回中4回1発クリア、卒業制作展1年と2年ともに1位という歴代の生徒の群を越える成果を得て首席で卒業し、滅多に出すことのないという「学校長賞」を頂いて学校生活を終える。
4.勇気と情熱の華
しかし、このような栄光のある卒業をできたのはまぐれに近かったと思う。
学校生活の話をしましょう。私は毎朝5時に起きて片道1時間半の道のりを車の運転で通学し、朝7時半頃に学校たどり着く事をしていました。授業が始まるのは9時からです。何故早く行くかというと実技の授業は席が先着順だったからです。私はみんなより1時間も早く待機し、私は2年間の学校生活で全て1番良い席で授業を受けました。講師の間近で見る技術や、すぐに質問できる環境は私の成長に大きく役立つことができました。
プライベートも自分の遊びの時間やお金は一切ありませんでした。常に勉強し、料理をし、制作展の作戦や構成をいつも考えていました。実技の試験の練習は1番やってる子の10倍、20倍はやっていたと思います。学科の試験の時期は教科書とノートを丸暗記していました。
そんな私はクラスメイトから異質な存在でした。ただ「本気でやっている人」としてみんなから理解して頂いていましたし、みんなから頼られるお兄さん的存在でもありました。けど私は逆にクラスメイトのみんなに支えられたと思っています。小学生の頃のようにイジメられていたら私の細い神経の糸は簡単にプッツリ切れていた事でしょう。18歳と29歳では歳が離れていたにも関わらず友人のように接してくれたことは本当に感謝したいと思っています。また校長先生や講師の先生もコンプレックスの塊の私がどうにか学校にとどまって卒業できるよう配慮も沢山してくれたと思います。
私は大勢の人に支えられてもらいながらも、心の隅でもしもこの学校生活で料理人のセンスがなくて見込みがないのなら料理人もパティシエも完全に諦めようと思っていました。まさしくラストチャンスでした。未知の世界に入り精神的にも体力的にも限界を超えてやりました。休みの日曜日は回復をするため15時間は爆睡してました。また精神科の病院は私の学校生活を応援してくれとてもサポートしてくれたのもとても大きかったです。
5.感謝の花を咲かせた日
長かった2年間でした。しかし勇往邁進で走った2年間だから早かったようにも思います。2年生の最後の大仕事の卒業制作展は応援してくれた人に、
「ここまで出来るようになったよ!」
と伝えたい作品にしようと構成を練って作成期間は7ヶ月。もちろん学校生活もある中、寝る間を惜しんで作り続けました。大晦日も正月もラストスパートの時期だったためTVは一切見ていません。一輪の花を作るのに2時間かかるものを何十個も作り、納得のいくものだけを採用しました。ここまで情熱的に真摯に取り組めたのは感謝でいっぱいだからです。私の卒業制作展のタイトルは
「感謝を込めて」
1番私を支えて助けてくれた母の大好きなカサブランカを沢山咲かせたシュガークラフト。そして、技術を要するその他のケーキです。
![](https://assets.st-note.com/img/1694010039096-HQfPXeNRJh.jpg?width=800)
制作展には家族、親戚、友人、病院スタッフなどたくさんの人が見にきてくれました。制作展は来場者の投票制になっていて集計が終わるのが夕方5時。日本料理、中華料理、フランス料理の部門の発表がされ、ようやく花形の洋菓子部門の発表です。
3位、2位と発表され、そしてその時が来ます!
「第1位は!」
名前を呼ばれた私は立ち上がり盛大な拍手を浴び、共に戦った仲間達、そして共に歩んだ仲間達にお辞儀をしました。そして校長先生のもとに歩み賞を頂きました。ここまで本当に本当に頑張って諦めずに続けてよかったと思えた瞬間でした。
6.成長の卒業、障害を超えた勝利の物語
そして私は卒業式の祭壇の前にいます。今、校長先生から最高峰の「学校長賞」をもらう瞬間です。私は29歳でありながらも調理師専門学校の製菓コースの入学を選択し、決意した圧倒的な首席で卒業を誓ったあの日。そして・・・
私は今、最高の形でパティシエになりました。
学校を卒業した私はもうお菓子を調べてお店を回ったりレシピがわからないで練習して失敗するなど苦労することはなくなり、あらゆるお菓子にも対応できるようになってレシピも自由自在に描くことができるようになりました。
学校生活は確かに大変で精神的負担もありました。しかし、あの選択をしたから大きなチャレンジすることができて、不屈の意志で進み続けた私は2年間の学校生活を全うすることができました。それは私に想像以上の勇気と自信を与え私という人間を大きく成長させました。弱かった私、強くなった私、これらの経験から私は自分自身に率直に向き合えるようになりました。精神疾患を持ちながら学校を最高の形で卒業できたのは可能性を実現する事を証明したと思います。
そしてパティシエとして新たな夢に歩んで行く私は新たな使命を背負い歩み続けます。これは障害を乗り越えた瞬間かもしれません。感謝の気持ちを胸に新たな一歩を踏み出します。
Gutsヒロ
![](https://assets.st-note.com/img/1694014406816-jHxDSTqKU6.jpg?width=800)
最後まで読んで頂きましてありがとうございました!とても嬉しいです♪ これから更新して頑張って参りたいと思いますので今後とも宜しくお願い致します!