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大黒柱になれなかった私

昨日夫のことを書いた。

自営業に向いていなかった夫

今日は私自身のお話。


夫と一緒に暮らし始める前私はフリーターだった。

とある街の古着屋で働いていた。

当時の私。周りは皆フリーター。

朝サラリーマンたちのラッシュが終わった時間に電車に乗って職場である古着屋に向かう。

店を開けて古着に囲まれて過ごし店を閉めて仕事としての一日が終わる。

そこから近所で働いている友人たちと飲みに行ったりご飯食べに行ったりして過ごし終電に乗って実家に帰る。あの頃は仕事というより遊びに行っている感覚でバイトをしていた。

新しいショップがオープンしたとか新作映画のタダ券が手に入ったとか友人がストリートで弾き語りをしてるとか。

時給は低かったが労働基準法などないに等しかった時代。

ほぼ休日なしの古着屋で働いていた私の手取りは今より多くその全てをもらった月に使い果たしまた次のバイト代をもらう繰り返し。

そんな毎日を送っていた私が夫と付き合った。

夫と暮らすにあたって古着屋はあまりにも通勤に時間がかかりすぎた。

私は古着屋をやめ夫と同業に就いた。

大口を受注するにはそれだけの初期投資が必要だったがお金がなかったのでまずは小口受注出来るだけの道具を揃え夫は大口の受注私は小口の受注をした。

数日に1回仕事をすればまとまったお金になる夫と違い小口の受注は土日祝問わず不規則な時間に走り回る日々。くたくたになって帰宅し寝ていると電話が鳴りまた出かけていく。結婚した夫と一緒に過ごせる時間も少なく自分自身が擦り切れていく感覚があった。

初期投資の道具を更新しなければいけなくなったタイミングで私は夫の同業を辞めた。

これまでサービス業しかしたことがなかった私。

夫も私も私が専業主婦をするのが希望だったが残念なことに我が家は当時お金がなくその選択肢は選べなかった。

カレンダー通りの休みで安定して収入がある仕事。

私は「事務員」になることにした。

当時の私には何のスキルもなく未知の職業だった事務員。

文字入力くらいは出来ないとどこも雇ってくれないだろうと思い市が主催する無料のワープロ教室に通った。そこで取ったワープロ検定資格を引っ提げて私は事務員募集の会社に面接に行った。

20代前半既婚子なしだったので妊娠を危ぶまれ数社落ちたがなんとか事務員になることが出来た。

ワープロ検定資格要らなかった。当時の事務員はほぼ紙ベースの仕事で一日にPCに向かう時間は1時間もないくらい。伝票も何もかも手書き。

初めて事務正社員として入社した会社は所長以外全員新人という地方の営業所だった。

なんでも社員全員が他社に引き抜かれて退職したらしい。最後に残った事務員もすぐに辞めるということで来る者拒まずの精神でいたところ運よく私が面接に行き採用されたのだった。

本社から出向して来た所長と営業が初めての営業マン数人の小さな営業所。前社員が顧客ごと他社に移行してしまったため業績は厳しかった。

所長は1年も経たないうちに匙を投げて本社に帰ってしまい入社間もない営業マンが所長になり右往左往しながらの運営が続いた。

ある日赤字続きだった営業所閉鎖の通達が本社から届き私たちは全員本社に配属されることになったが本社は県を2つ跨いだ先にあり通勤時間が往復で5時間はかかるため私は退職の道を選んだ。

25歳になった私はそろそろ子供が欲しいと考えていた。

コウノトリ待ちで1年過ごした。来ない。コウノトリ来ない。

暇を持て余した私は再度事務員になった…途端妊娠した。

私は出産してからも仕事をする気満々だったのだが生まれて来た子供は想像以上に私の心を占領した。

育休復帰するはずだった2社目の事務職を諦めた。

子供が乳児の頃は新聞の折り込み広告で知った会社で月数万円の在宅ワークをしていた。

紙ベースの原稿をテキスト起こししてフロッピーで納品するという初心者でも充分通用する仕事。

子供が歩くようになって目が離せなくなって長時間PCに向かうことが難しくなった。

今後のことも考えてそろそろ仕事に復帰しなければという気持ちもあり在宅ワークの会社に辞めることを伝えたところ運よく拾ってもらえることになった。最初は見習いだが数ヶ月で正社員にしてくれるという。

保育園の手続きも滞りなく済んだ。

当時この地域には出産後も仕事を続けている人がほとんどおらずパート程度の仕事でも簡単に保育園に入れることが出来たのでフルタイム勤務だと最優先で選考を通過出来たのだった。

後は保育園の開始を待つだけになった時在宅ワークの会社から連絡があった。顧客が不渡りを出し資金繰りが悪化したので採用出来なくなったという。

今更そんなこと言われても。

大急ぎで仕事を探した。下手な鉄砲方式で面接を受けまくり何とか食品加工会社でパート事務の仕事に就けることになった。

子供の慣らし保育が終わり食品加工会社でのパート事務が始まり毎日私はくたくただった。追い討ちをかけるように自宅で育てていた時は風邪一つ引かなかった子供が次から次へと保育園で病気をもらってきた。

当時この地域には病児保育もなく実家も遠かった私は子供が病気になるたびにパート事務を休む羽目になった。

どんどん会社に居づらくなった。面と向かっては誰も何も言わなかったがきっと私を雇ったことを後悔しているだろうと勝手に思い込み私はパート事務を辞めた。

子供に免疫がつきほぼ休むこともなくなった頃再度職探しをした。

幼児連れで実家のサポートなしだった私を雇ってくれる会社はどこにもなかった。

藁にも縋る思いで派遣会社に登録した。

顔合わせに行った中堅製造業の上司がたまたま同年代で子供の年齢も近く共働きの男性だったおかげで私はすぐ派遣先を決めることが出来た。

エクセルで日々の製造日報を管理し数字をまとめて報告書を作成するというのがメインの仕事だった。

与えられたエクセル表はほとんどが手打ち入力だったため効率化することを目指してネットで調べながらマクロを組みボタン一つで報告書が出来るツールを作成した。

1年目で成果を認められ時給も上がり他部署からツール作成を依頼されることもあったりしてそこそこ充実した毎日だった。

上司にねだってアクセスを購入してもらいそちらのツール作りにも積極的に取り組んだ。

本来この会社は7:45始業だったが私には子供がいたためその時間に出勤するのは不可能で顔合わせで掛け合い8:30始業にしてもらっていた。

2年目で正社員を打診されたが始業時間がネックになり受けることが出来なかった。

3年目。リーマンショックで社内に不穏な空気が流れた。社員のボーナスがカットされたり何人か派遣が切られたりした。景気が回復するまでしばらくは我慢するしかないと皆思っていた。

気付くと6年が経っていた。その間の昇給1度だけ。

そろそろ時給をあげてもらおうと派遣会社の営業担当を通して交渉した。

派遣は時給凍結正社員への昇格なし

リーマンショックを経て出した会社の結論がこれだった。

いつか子供が大きくなったら正社員にしてもらえるよう頑張って来た私の中で何かが音を立てて崩れて行った。

同じタイミングで知人がサイドビジネスのパートナーを探しているという。

私は中堅製造業の派遣に見切りをつけ転職することにした。

派遣の引き継ぎをする時マクロとアクセスが多少分かる人を希望したがこの地域にそんな派遣社員は存在しなかった。1人事務だったため部署の中にも誰も私が作成したツールを扱える人がいない。

せっせと効率化したエクセルファイルを就任時の手入力に戻し6年間お世話になった派遣先を後にした。

知人のサイドビジネスはとてもやりがいがあるものだった。

徐々に仕事にのめりこみ帰宅が深夜になることもあった。夫は応援してくれたが子供の精神がどんどん不安定になっていくのが手に取るように分かった。子供はこの頃中学生になり難しい年頃だった。時間をかけて子供に寄り添いたいという気持ちが大きくなりサイドビジネスの手伝いは僅か1年で幕を閉じた。

知人の計らいで会社都合退職にしてもらいこの時初めて失業保険を受給した。受給期間にゆっくりと子供と向き合いもつれた糸を少しずつほどいていった。子供は以前の安定を取り戻した。この時に私は自身の仕事を充実させることを諦めた。

失業保険受給期間が終わり私はまた派遣社員として働き始めた。

現在は大企業の派遣満期を経て契約社員として働いている。

社内の雰囲気は非常によく業務内容も私に合っているが今の会社で働き続ける限り年収の大幅アップは見込めない。

子供が大学生になって子育てがほぼ終了した今40代が転職の最後のチャンスと思う気持ちと今の会社を手放したら後悔することになる可能性の方が高いと思う気持ちの狭間でしばらく悩みながら暮らす日々が続きそうだ。

私の経験や考え方が少しでもお役に立てたなら嬉しいです(◍•ᴗ•◍)