「謙虚」になる『究極のコツ』
「体育会系の考え方」の終焉 という記事で、「先輩後輩」とか、「長く生きてるから偉い」とか、いやいや、そもそも「偉い」とかそんなものに意味はないんだ、と書きました。
すると、ある一つの疑問が生まれます。
「誰かを敬ったり、尊敬したりってしなくていいの?」
そうなんです。一歩間違えると、ただの「反抗」したいだけの勘違い人間になってしまいます。それでは、人に信頼されないし、人はついてこないし、愛されません。
「謙虚」というのは、人を動かす人間の絶対条件です。
ですが、「本質を知っている謙虚」でなければいけません。
ただ「謙虚」でいるというのはとってもムズイ。
何かに、成功したり、周りの人よりも何かが優れていたり、周りの人から褒められたりすると、「自信」を持ちます。すると、どうしても、ほんの少しでも、上から目線になってしまったり、無駄な感情を抱いてしまったりしますよね。
「謙虚」でいるというのはとってもムズイ。
今日は「本質を知っている謙虚」で居続けるための、『究極のコツ』を書こうと思います。
『究極のコツ』
よく、こう言う人がいます。
「自分は自分、他人は他人。」
これは、正しいと思います。ただ僕は、そこに真理は無いと思います。
まあこれについては、本当に人それぞれなので正解なんて勿論ないんですが、僕はこう思って生きています。
「自分は全て、『他人』でできている。」
考えてみると、まず僕を生んでくれたのは、母と父です。突然発生的に何もないとこに生まれたわけじゃあないですよね。そしていろ~んなことを学びながら、吸収しながら、人は生きていきますね。体が発達するのも、誰かが育てたモノや、誰かが売ったものや、誰かが作ったものを、食べたり飲んだりするおかげです。いろんなことを学ぶのも、周りの人の言葉を聞き、言葉を覚え、周りの人の行動を見て、物事のやり方を知る。感情も同じでです。感情はこの周りの人に影響されながら発達する過程で、豊かに育んでいくものですよね。
自分が、何かを思いついたとしましょう。それは、本当に自分が何もないところからポッと思いついたものなのか?僕はそれはあり得ないと思っています。知っている知識を組み合わせて生まれた新しいアイデア、つまり素は全て他人(ひと)なのです。
僕の話し方も、服のセンスも、モノの選び方も、人との接し方も、気持ちの持ち方も、食べ方も、歩き方も、走り方も、なんだってなんだって、素は全て他人(ひと)なんです。
人は一人では生きてないんです。
僕は一人では生きてないんです。
貴方は一人では生きてないんです。
周りの人がいるから、生きてるんです。
今の自分がいるのは、全て、全て、他人(ひと)のおかげなんです。
この考え方は、最強です。
周りの人への「感謝」も尽きません。
周りの人への「敬い」も「尊敬」も尽きることはありません。
その純粋な「感謝」や「尊敬」や「敬い」が僕は大切だと思っているし、その気持ちが大切だと思っています。
「敬語を使う」だとか、「敬語を使わない」だとか、そんな表面的なことはどーーだっていいし、そんなことで人の価値は変わらないんです。
ついでにここで宣言しておきます。僕に純粋な気持ちで感謝や尊敬や敬いを持ってないのなら、敬語なんて全く使っていただかなくて結構です。年上だからとか肩書が上だからとか、そんな理由でなら「敬語」なんて使わないでほしいです。死ぬまでずっと貫きますよ。そんなのは、どーーーでもいい。
人と人は、対等です。必ず、対等です。
ただ、人に自分の気持ちを伝えることは、時に、とてつもない力を発揮します。とっても大事なことです。だから、純粋に人に「感謝」や「尊敬」や「敬い」の気持ちを抱いたならば、それを伝えるツールとして、「敬語」だったりを使い、行動や言葉で示すのはとても素晴らしいことだと思います。「敬語」はとっても美しい日本の伝統文化です。
「自分は全て、『他人』でできている。」
大丈夫.