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勉強なんかさせるべきじゃない。

なんで勉強するの?させるの?

 勉強する理由として、「義務だから」「大学に入った方がいい」「自分の進路を狭めないためにも勉強をするべき」というようなことが世間一般に言われています。しかしながらこれらの意見は、学歴に基づき仕事を振り分ける現代社会の一つのインフラとしての公教育の目的には合致しますが、同時に人間的な勉強、学習の本質とはかけ離れていると言わざるを得ません。これについては以前「勉強の意味なんかない」という記事でも取り上げているのでぜひ読んで頂けたらと思います。
 
 勉強の意味の解釈から言えば、勉強は「人が成長するために必要な学習」のほんの1部分でしかありません。勉強からしか得られないことはないです。それにも関わらず盲目的な勉強信者の方々は、「学力が人間の価値である」と信じ、自身や子に勉強をさせています。特に子供はその時期に経験したことがその後の成長に大きな影響を与えるため、親のエゴで他の貴重な経験を排除してまで小学、中学校時代に子に勉強を強いることは子の成長を阻害する可能性があるため、私は賛同できません。
 これまで少し強い論調で勉強の一部分を非難してきましたが、私は決して必死に勉強をしている、努力をしている人を貶すわけではなく、勉強だけが正解であるという偏った変な思考に対して糾弾しているだけです。実際、勉強を頑張って成績を上げた人、社会人になっても資格勉強などに励んでいる方に対しては大変尊敬の意を持っています。自分の目標に真摯に努力し、達成した経験は何物にも変え難い貴重なものだと思います。最高です。

SNSのせい

 最近SNSによって「幸せ」や「学歴」などのハードルが異常に上がっている気がします。つまり、上には上がいるというのは頭では理解しているのですが、SNSによってその「上」を頻繁に見られるようになってしまったため、あたかもそうでない自分が不幸であるかのように錯覚してしまうという現象が起きているということです。最近の不景気も相まってさらに自分は貧しくて不幸であるという勝手な思い込みが進行していると思います。
 教育も例外なく、このSNSの流れによって同様の現象が起きていると思います。SNSで「私立有名大学在学中」「有名国立大学卒」というのを頻繁に見るようになり、そうでない親がそれを見て感じる必要のないコンプレックスを感じ、子を洗脳し、勉強させる、子はそんなことに気づかず小さい頃から他の貴重な経験を捨てて脳死で勉強をするというような流れになっていると感じています。私自身別に裕福なわけでもなく、地方の偏差値のそこまで高くない国立大学に通っていますが、私はそのような脳死で勉強をし続けてきた方たちよりも確実に幸せを感じられています。私は勉強が重要であることを理解しつつも、勉強のみでは人生の答えが出ないと知っていますし、そう信じています。できるだけ多くの方が現代の悪い承認欲求の結晶であるSNSから目を覚ますことを願っています。

道が見えている方が安心する

SNS以外にも、子ども時代や学生時代に勉強をさせる、する理由があります。
それは、「勉強をしている状況に安心するから」です。例えば、私は昔から
e-sports競技が好きなのですが、現代の技術進化により、日本は未だ発展途上ですが、この業界は着実に成長してきています。この調子でいけば他のスポーツと比較しても引けを取らないくらい大きな業界になることは容易に予想できます。では、そのような業界が発展してきており、もしかしたら子供がその才能があるかもしれない状況の中で、ゲームと勉強を優先順位の同順位として扱うことができますか?多分、多くの方はできないと思います。なぜなら、ゲームをさせているより勉強をさせている方が「安心するから」です。親がその状況に「安心するから」子にそれを強いるのは子の無限の可能性を否定することになります。ダラダラしている子に対して、「何もやることないなら勉強しなさい」は理解ができますが、子がやりたいことがあるにも関わらず、その時間を無理に奪い取って「私が安心するから勉強しろ」は理解できないですし、賛同できません。
※メリハリをつけさせることは大事であり、勉強を全くしないでゲームをすることを許容するわけではありません。

以上です。今回も読んでいただきありがとうございます。

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