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さみしさの効用

大学生のとき、
バイト先のオーナーが、
「寂しいなんて感情は贅沢だ」と言っていた。

その当時は意味がよく分からなかったけど、
大人になるとよく分かる。
生活するのに精一杯だと、「寂しい」なんて感傷に浸る余裕もなくなってくる。
寂しいと思えるのは、それだけの余裕がある証拠なのだ。
(と言いつつ、寂しいと思うときの切実さもよく分かる)

大人になって、私はむしろ孤独に焦がれるようになった。
レイモンド・カーヴァーに、『頼むから静かにしてくれ』という小説があるけれど、
(村上春樹の訳が好き)
私の場合は、『頼むからひとりにしてくれ』という感じ。
(ほんとうに、ときどき「頼むからひとりにしてくれ」って言いたくなる)


創作するためには、
膨大な「ひとりの時間」が必要で、
そのわずかな「ひとりの時間」を得られないと苦しくなる。
ひとりになれない日が続くと、真綿で首を絞められているような気持ちになったりする。
(誇張じゃなくて、ほんとうに)


寂しさについて、
寺地はるなさんの『ビオレタ』に出てくる千歳さんが、こんなことを言っていた。


「でもさびしいのは標準仕様でしょ。なんていうか。人間の」
千歳さんは、不可思議なことを言いだす。
「標準仕様?」
「うん。さびしいって、普通のことだよ。当たり前のことだよ」
 こうやってふたりでいても、さびしいよ。でもそれは当たり前のことなんだよ。だからほんの一瞬でも、誰かと気持ちが通じ合うと嬉しいんじゃないか。その一瞬のために、声や目や手を駆使して伝えるんじゃないか


とても素敵な言葉だな、とこれを読んだときに思った。
寂しさというのは標準仕様で、だから色んなものを駆使して伝える、という行為そのものが光っているような。

文章を書くのもそれに似ている。
何かを目指して書くことは、切実な片想いのようだ。決して手が届かないのに、それでも目指して書き続ける。

そういう切実さに浸ることができるのは、寂しいという感情のおかげなんだろうな、と思う。


子供の頃、自分の感情が「さみしさ」なのか分からなかった。
(今も、明確な名前を感情につけることはできない)

なぜか分からないけれど、泣きたくなるような気持ち。

そういうものを心に抱えて、どうすることもできなくて、私は自分の気持ちを言葉に記すようになった。
今もそれをずっとしている。


その一方で
この日々は、とても幸せなんだろうなと思う。

ずっと家族と一緒にいて、寂しさに焦がれてしまうこと。
ひとりの時間を味わうこと。
どんな人と一緒にいても心の屈託は消えなくて、文章にして表すこと。


ほんの一瞬でも気持ちが通じ合うのは、奇跡的なことなのだ。

そういう真理を書けるように、私もなりたいなと思う。





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