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生命力を高めあう「つながり」を自分の手で創る方法

占星術の使い道、というか、活用方法としてよく言われるのが「太陽を生きる」「イキイキと自分らしさを発揮する」「人生を創造的・主体的に生きる」ってこと。

スピリチュアルな生き方論だと「魂の望む方向に進む」って、って表現になるかな。仏教なら「いらんコダワリにふりまわされずに生きよう」だし、他の宗教も心理学をベースにした団体も大体は「善く生きよう」ってことを言ってる。

そいで私が最近感じてるのが、なんにせよ生命力の強さがダイジだぞ!!ってこと。心身の健康とか免疫力もそうだけど、精神的なエネルギーも含めて、つきつめれば「生命力」をどう鍛える(慈しむ/育む/大切にする)かってことが起点になってるんじゃないだろーか。

「生命力」ってどんなチカラかっていうと、

生きているという確かな実感や悦び
未来へ向かうモチベーション
自分と自分を取り巻く世界に対する
信頼と感謝を呼び起こす
ような、そんなチカラ。

それさえあれば、というかそこをスタートラインにして「自分らしさを発揮する」とか、「創造的・主体的に生きる」とか、「魂の望む方向に進む」とか、「いらんコダワリにふりまわされずに」「善く生きる」ってふうに運命は展開すると思うんだよね。

「運命」ってのは、命を運ぶこと、命が運ばれること。
生命力は、いのちのチカラ。(まんま)

生命力を高めるプロセスが、それすなわち展開する運命なんではないか!そう思って、生命力に影響を与えるものをイロイロとケンショーしてみようと思ったわけです。

生命力の変化を敏感に感じ取る方法

じゃあその「生命力」っていういのちのパワーが上がったり下がったり強まったりしぼんだりすることを、どうやって把握しようか?と。

いのちのチカラを最大限発揮するためには、前提としていのちが無事で健やかに継続できてなきゃいけない。これはあらゆる生命体に共通の「生存本能」でもある。生存本能がどこに現れるかっていうと、基本的には「身体の反応」かな。あと、「感情」。占星術だと「月」の象意として語られる領域。

「反応」ってのは意識したり自覚する前の運動だから、反応した後に「あ、こんな反応してた!」って振り返って気付くしかない。(月ってのは「過去」だからね)セルフ・モニタリングってやつ。YOGAとか禅の瞑想とか、身体にアプローチする方法は、セルフ・モニタリングのいい習慣付けになる。

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出来るだけ具体的に、身体の反応をチェックする。常に全神経集中なんてできないから、「今どうなんだろう?」ってときにね。会議の前に胃が痛くなる、とかAさんと話した後は右肩が重いとか、特定のタイミングで特定の部位に「変化」があるときは、自分の「生命力」が反応していると考えてよさそう。

生存本能は生命力の危機をもちろん嫌がるシステムだから、生命力を弱めてくる要素を避けようとする。ただし、安全第一が行き過ぎて逆効果になる反応だってある。だからこそセルフ・モニタリングで生存本能(月)システムのエラーを含めた意識的なチェックが必要になる。

単純に「生きる!」「生き延びる!」ためだけのチカラじゃないのが、この記事で言わんとしている「生命力」。善く生きるためのチカラ。

生存本能、生命の仕組みから見た「善く生きる」とはどういうことかって視点がオモシロイのがこの本。

逆に安全第一が行き過ぎて生命力がイキイキと発揮できない…って状態を身体(神経)のしくみから解き明かしたポリヴェーガル理論ってのもある(私はまだ概論までしか読んでないけど、これもおもしろそーだ!!)

「感情」!これは取り扱い注意

それからもうひとつのチェックポイントが、感情

これは身体に現れる生存本能システムよりもさらに「誤作動(誤解)」が多いシロモノ!!(笑)というのも、「生命力そのもの」と「感情」をいっしょくたに捉えると生命力向上プロジェクトが全く上手くいかないことが多くあるから。

タマシイをジブンに結び付けて、現実世界で運命を展開させるエネルギーが「生命力」だから、生命力とタマシイはちょっと違うんだけど、どっちにしてもそれと感情は別物、ってことが言いたいわけ。

でも「感情」もやっぱり「生命力の変化を把握する」目印になることは確かで。そのチェック(取り扱い)方法にはちょっと工夫がいる。それについてはこの先紹介する【生命力を高めあう「つながり」を自分の手で創り出す方法】の中で触れるつもり。とりあえず、感情は目印であって、そのアップダウンが生命力のアップダウンとイコールじゃないよ、ってことだけ心に留めて進もう。

生命力が高まるとき

で、生命力が高まるとどうなるかって、健康で元気なのはもちろんそうだよね。善く生きるチカラですから。

生きているという確かな実感や悦び
未来へ向かうモチベーション
自分と自分を取り巻く世界に対する
信頼と感謝を呼び起こす

イイことづくめでしょ。私は、これがニンゲンの…ちょっとくすぐったい言い方をするなら「タマシイの目的」なんじゃないかなって思うよ。

生命力を高めるプロセスを通して発揮する「自分らしさ」とか「創造的な生き方」は、人によって様々で。色合いというか質感というか、だんだん輪郭が濃くなっていく生命力のカタチみたいなものが、その人の「タマシイの個性」「人生という唯一無二の物語」みたいなもんなんじゃないかなぁ、って。

んで、そのプロセスを「物語」に見立てて、ホロスコープ片手にオトナの読み聞かせとして楽しんでみようよってのが私のプロジェクトのひとつでもあるんだけど( ´艸`*)

じゃあ、どうやって?どうやって生命力を高めることができるんだろう?

もちろんそれも人それぞれ!!なんだけど、共通する大前提というか、生命力を高めるためになによりまず第一に必要な(これがなきゃ何をやってもあんま意味ないっちゅうくらいダイジな)キーワードがあるんだよね。

それが 「つ な が り」

生命力を最大限発揮するための大前提

「つながり」をパートナーシップとか、関係性って言ってもイイ。でもそうするとコトバのイメージの範囲が狭くなっちゃうから、大きく「つながり」って言葉を使う。

自分と誰かの繋がりだけじゃなくて、自分と世界のつながり、自分自身の内的なつながりも全部ひっくるめて、なにかとの間に「つながり」が生まれること、それが生命力を高めるための重要キーワード。

もちろん、つながることがすなわち生命力を高めること、とは言えないわけで…ネガティブな影響、ポジティブな影響もある。どちらにしてもつながりの強さだったり質だったり「どんなもんじゃ」ってことが、生命力のどんなもんじゃにめちゃんこ影響する。

だからいかに「つながり」を創るかが、いかに生きるかってことになる、よね?

「つながり」と健康の関係性は科学的な研究でも注目されてるテーマ。なんてったって健康寿命に差が出てるからね!これはタイトルに「友だちの数」ってあるけど、「友だち100人でっきるかな♪」ってハナシでもないよ。ダイジなのは、そのつながりののどんなもんじゃなの。

質の高いつながりって聞くと「親密で強いコネクション」を思い浮かべるかもしれないけど、案外そうじゃなくて「よわくてバラバラなネットワーク」がめちゃめちゃダイジなのよ。

自分自身の存在に直結する「つながり」

生命力を高めるプロセスを通して発揮する「自分らしさ」とか「創造的な生き方」は、人によって様々で。色合いというか質感というか、だんだん輪郭が濃くなっていく生命力のカタチみたいなものが、その人の「タマシイの個性」「人生という唯一無二の物語」みたいなもんなんじゃないかなぁ、って。

生命力のカタチはひとそれぞれで、それが「個性=自分らしさ」なんじゃないかって書いたんだけども。この自分らしさっていう「私は私、ひとつの独立した生命体だ」って感覚は意外に新しい感覚(近代以降)なんだって。

「私(らしさ)」って輪郭は「他者」と比較しながら見出していくもの、って人類学の視点がある。日本っぽさ、てのは欧米ぽさ、だとかアジアの似てるけど違う国々の「ぽさ」と比較して見えてくる。

この「ぽさ」は時と場合とオトナの都合で変わるんだぞ、ってのがオモシロイところ。「ぽさ」ってのは変えようのない確かな事実(真実)じゃなくて、その場の都合で作り上げられた建前に近い。

これは国とか社会のスケールじゃなくて、個人でもそう。

「私(らしさ)」ってのは、最初から確かな「私(らしさ)」があるわけじゃなくて、他者(私じゃないもの)との境目にある「輪郭」がソレなんだよ、ってこと。その輪郭の位置取りは、関係性=つながりのどんなもんじゃが決める。

ちなみに上の本は、社会スケールから個人スケールまで「私(らしさ)って何?」という問いに向き合うことがテーマになってる本!オモシロイよ!!

自分以外の誰かだったり、自分を取り巻く環境や状況だったり、私と世界との関係性が「私」っていう存在を浮かび上がらせる。日本人だったり、お母さんだったり、同級生だったり、たまに声を交わすご近所さんだったり、いつも相談に乗ってくれる先輩だったり、たまたまブログをきっかけに知り合ったネット上の友人・・・いろんな関係性をトータルしたところに、「私(らしさ)」が浮かび上がってくる。

生命力のカタチってのは、肩書やキャラクター像で言いあらわすには抽象的すぎるんだけど、同じシステムだと思う。関係性の中に浮かび上がってくるもの。「つながり」のどんなもんじゃが描き出すもの。

仲良くするだとか具体的な行動がなくても、「どう捉える(見る)か」ってのもひとつの「つながり」。どう感じるか、とか、いつどこでどんなふうに接点を持ったのか、とか。

点をつないで生まれる線、線と線をむすぶカタチ、カタチに重ね合わせる意味

「つながり」の先に見えてくるカタチ、質感、色合いや風味…そういったものを全部まとめて、自分が自分に語りきかせた物語の登場人物(主人公)が「私らしさ」の正体だと、そう思ってる。

光をつないで描く星座に、絵を見出して、そこに神話が重ね合わされたように、点と点をつないで、線と線をむすんで、大きな意味を見つけ出すのが生きていくてことなんじゃないかな。私たちはみんな、自分の神話を生きてる。そしてそのストーリーは、自分で決められる

点と点を結ぶ見えない線、もともとなにも「ない」ところに浮かび上がるカタチが、自分らしさ。最初からそこにあったわけじゃなくて、照準を合わせながら調整しながら引いていく線の重なり合いに、「今」がある

自分と他者(他人や環境)との「つながり」が「私(らしさ)」を決めるんなら、私らしさって自分の意志で決められるわけじゃないんだ…って思うかもしれない。

確かに自分が思ってる私らしさって、自分が思ってるほど自分で決めたものじゃない。社会との関わりで決められる役割とかイメージをなぞってる部分が多い。でもねでもね、「つながり」のどんなもんじゃ(質、強弱、方向性)は自分が選択できる

自分で選択するつながりのどんなもんじゃと、コントロールの範囲外にある世界との組み合わせ。自分と世界がかけ合わさった先に「私」だったり「私の人生」が存在する

それって、世界と私の夢のコラボレーション、私の運命の共同創造だよねぇ。その「命を運ぶ(運命)」エネルギーが、生命力!

ちなみに占星術は、その共同創造をサポートしてくれる地図みたいだなって思う。その中に「私らしさ」はないんだけど、私らしさを浮かび上がらせるであろう世界との「つながり」を、さあどうする?って問いかけてくれる地図。

「つながり」の質が変われば、そこから形成される生命力のカタチ(強さ)が変わる。運命が、人生が変わる。んまぁ、そう言っちゃうと大げさに聞こえるけど(笑)でも、そうでしょ?

「つながる」ことで高めあえる「生命力」

それで私が言いたいのは、どんどんつながりを創って生命力高めようぜヒャッハー!!じゃなくて、まずは生命力を奪い合うような「つながり」方はやめようぜ、ってハナシ。本来つながりってのは、お互いの生命力を高めあうためにあるんだから。お互いの、ね。

吸い取ったり奪ったりする人もいるけど(笑)

でもでも、それって得してるように見せかけて自分の身を亡ぼすんです。なんで「つながる」ことで高めあうことができるのかって、それは生命力そのものがお互いがお互いに生命力を「贈る&受け取る」ことで循環する仕組みになってるからだよ。

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回るから、風が生まれる。その風が、火を大きくする。生命力ってのはよく火で象徴されるんだけど、火のまわりでゆらいでる風(気体)とか、そこに感じる「熱」のほうが「生命力」の本体、実体のない正体なのかも。

「パワー」って、そのもの本体はないじゃん。なにかに働きかけて初めて「パワー」の存在が明らかになるわけで。

循環させずに吸ったり奪ったりしてても、風は生まれない。酸素が無けりゃ火も燃えることができないから、そのうち消えてしまう。

ちなみにニンゲンの社会システムそのものの、「贈り合う」「受け取りあう」ことで生命力を維持している。これは、私の敬愛する内田樹せんせがよく取り上げてるハナシ。

言葉、婚姻、経済…ニンゲンの社会集団は贈り合い、交わし合う循環の上に成立した。そこに生命力が生まれる。

そうだそうだ、動的均衡。循環する流れがあって『生きている』ことができる。その流れが完全に止まっているのは、生きている(生物)とは言えない。これが「生命力」のしくみというか、生命力が生命力であるリクツ。

パッとみ止まっているように見えるけど、絶えず動き続けて変化し続けているから安定を保つことができている。存在することができる。

私らしさってのもパッとみ「確定した変わらないもの、確かなもの、ブレない軸」のように思えるけど、その実動き続けて変わり続けてることで存在できている。そのぶるぶるにブレまくった軸の動く軌跡こそが、生命力が輪郭を表していく過程、浮かび上がる私らしさなんだと思う。

交換によって社会とか集団っていう存在が成立するのは、交換し合う両者が「相手の存在の根拠を与え合っているから」っていう内田せんせのハナシが大好き。存在の根拠を与え合うことで生命力が生まれる

これは社会だけじゃなくて、私たち個人の生命力もそうだよね。存在の根拠を与え合うことで生まれる循環、そういう「つながり」方が生命力を生み出し、高めあう。

私はこのハナシを聞いて、1⇔7ハウスラインは「生命力ライン」のことじゃあないか!!!と感動したよ。

「循環」ってのもキーワードだな。与えるのと、受け取るのと、両方必要。片方を止めると、循環は止まっちゃう。循環が滞れば生命力はグングン弱まって、止まってしまう。止まっちゃうってことは命を失うってことだから、その前に生存本能が「身体」と「感情」に強烈なアラームを発信するはずだよね。身体と心の非常事態宣言だ。

まずは生命力を奪いあうつながり方はやめようぜってのは、自分以外の誰かとの関係だけじゃない。自分自身とのつながりもそう。というか、まずはそこからかな。

自分に対して、存在そのものを受け止めて、存在そのものを肯定してあげられてるかな?「身体」や「感情」のメッセージを否定したり無かったことにせずに耳を傾けられてるかな?

「つながり」の方法論NVC

他者にせよ自分自身にせよ、生命力を奪うつながりじゃなくて、高めあうつながりを創りだす方法のひとつとして、NVCを紹介したい。これ、コミュニケーション論として知られてるんだけど、いわゆる交渉テクニックとか会話スキルじゃない。

「善く生きる」ための「つながり」の在り方論って言うのかな。ある種人生論とか思想みたいなスケールのハナシも含まれてるんだけど、とはいえかなり実践的で応用範囲が広い。

私はNVCを知って、まさにこれって【生命力を高めあう「つながり」を自分の手で創り出す方法】じゃあないか!!!と感動したの。そいで日々の生活にこの視点を取り入れてる(試行錯誤しながら)んだけど、もしかすると本家NVC的には「それはNVCの思想とは違う!!」って部分もあるかもしれない。

まずNVCには「生命力」うんぬんのハナシは(もちろん占星術のハナシも)出て来ないからね(笑)だからここから先紹介する【生命力を高めあう「つながり」を自分の手で創り出す方法】はNVC的コミュニケーション論を取り入れた私個人の実践例として受け取ってもらえたらな、と。

占星術ファンに向けて宣伝(笑)するなら、「関係性」を司る天秤座シーズンの今、風の時代と言われるこのタイミングだからこそ、この学びは『活きる』!!!(というか必要!!!)と熱い気持ちで書きました。

生命力を高める、だけじゃなくて互いに「高めあう」つながり方。

生きているという確かな実感や悦び
未来へ向かうモチベーション
自分と自分を取り巻く世界に対する
信頼と感謝を呼び起こす

「つながり」がかわれば、そこから形成される生命力のカタチ(強さ)が変わる。人生が変わる。自分と、自分を取り巻く世界が変わる。本気でそう思ってるのです。生命力をお互いに高めあえる関係性があちこちに生まれれば、世界はもっとイキイキと、人生はもっと楽しくなる

これを読んでくれた人と、私のこの接点も、「運命の協同創造」の一ページ、生命力を高めあえるつながりになりますようにと、心を込めて。

NVCというコミュニケーション論について

まず、NVCってなに?ってところから。

世界各地の紛争から夫婦のもめごとまで、様々な対立を調停してきたマーシャル博士が自身の思想(どうして暴力は存在するのか?なぜ人は争わないといけないのか?)とそのコミュニケーションプロセスを体系化したのがNVC、ノン・バイオレント・コミュニケーション!

NVC(Nonviolent Communication=非暴力コミュニケーション)とは、1970年代に、アメリカの臨床心理学者マーシャル・B・ローゼンバーグ博士によって体系化され、提唱された、自分の内と外に平和をつくるプロセスです。
家族や友人から、職場、組織、国際関係まであらゆる人間関係を、支配、対立、緊張、依存の関係から、自由で思いやりにあふれた、お互いを豊かにし合う関係へと変えることを可能にする考え方、話し方という「方法」であると同時に、私たちに「なんのために、どう生きるか」を問う、根源的な「意識」でもあります。

― NVC Japan「NVCとは」

日本では「NVCジャパン」って組織がマーシャルの理念を受け継いで活動してるようです。私はNVCを伝える正式な「認定トレーナー」じゃないんだけど、マーシャルの理念に感銘を受けたいちファンとして「NVC、こいつぁスゲェや!!」ってところをがんばって伝えたいッ

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NVCは非暴力コミュニケーション、そして共感コミュニケーションって言われているんだけど、「(非)暴力」と「共感」、このふたつの言葉は私たちが思い浮かべる言葉の意味とちょっと違うから、まずはそこから説明させてね。

その次にNVCの大きな特徴、コミュニケーションを「ニーズ(満たしたい欲求)」「感情」「手段」と分けて捉えている世界観、ここがめちゃんこオモシロイから、そこに的を絞って紹介したい。

私たちは「暴力」に囚われている

非暴力ってあるように、「暴力的なコミュニケーションをやめよう」ってのがNVCの核なんだよね。

「いえいえ、ワタクシ暴力的なコミュニケーションなんて一切してませんよ。声を荒げたりキタナイ言葉使ったりいたしませんもの」って思った?でもね、今の私たちのコミュニケーションって、想像以上に「暴力」から抜け出せてないのかもしれないよ。

マーシャルの言う「暴力」には、攻撃的な言葉や態度だけじゃなくて、「評価・批判すること」「勝手な解釈や決めつけ」「比較すること」「恥や罪悪感を感じさせること」も含まれる。これはみんな、相手を支配(コントロール)するために生まれた言葉なんだって。

「だらしないなー、ちゃんとしてよ」
「あなたってちっとも私の話を聞いてくれないのね…」
「せっかくしてあげたのに」
何気なく発してる言葉も、評価や批判、決めつけ盛沢山だった…!!衝撃的だったのは、あからさまなネガティブワードや態度だけじゃなくて、褒め言葉だって暴力的なコミュニケーションになりうるってこと。

暴力的コミュニケーションといえば、精神科医の名越康文せんせは『人間のコミュニケーションは破壊的で攻撃的な衝動を最愛の人に向けることによって始まる』って言ってた。だからコミュニケーション能力で言えば、みんなマイナスからのスタートなんだって。

まずはフラットな状態に、ゼロに戻そう、そこがコミュニケーションのスタートライン。そんなハナシだったかな。

NVCも、上手いこと喋って人に好かれようとかプレゼン上手になろうとか相手を言い負かしたり丸め込んだりそういうのんじゃなくて、まずはスタートラインに立とうってハナシなのかも。

もっと言えば、暴力的なコミュニケーションって、人間社会の本来のコミュニケーションのやり方じゃないんじゃないかって。生命力を奪い合うコミュニケーションなんて、不自然なコミュニケーションなんだよ。だってほら、コミュニケーション(交換)って、生命力を立ち上げる(高める)ためにあるはずでしょ!!だから、健全で自然なスタートラインに戻ろう

「評価・非難すること」「勝手な解釈や決めつけ」「比較すること」「恥や罪悪感を感じさせること」これは社会に支配者が生まれた時に同時に出来た「新しい言葉」なんだ、って視点もマーシャルの本には書かれてるよ。支配者が生まれる前と後でコミュニケーションの在り方が変わったんだ、って。このへんもめーーーっちゃオモシロイんだけど、この記事だと省略!

支配者が生まれたから暴力的なコミュニケーション(言葉)が生まれた?最初は面白いけど突飛なアイディアだなーって思ったけど、Humankindを読んでガッツーーーーンって「ニンゲンの歴史に対する思い込みの強さ」にショックを受けたよ。。。これも別の機会にBOOK CAFEで紹介したいッ

ってことでね、暴力的なコミュニケーションはそれが当たり前に浸透してるんだけど、そうじゃないコミュニケーションだって当然あるの。というか、そっちが健全で、イキイキとつながれる方法なの!だからダイジョーブ。みんなできるはず。

というか、そういう世界にしない?一緒に。だって「つながり」は選択できるんだから。私は生命力を高めあうつながりを選択したい。

批判したことを批判するんじゃなくて

そうそう、NVCはそういう批判や評価の言葉を「ヤメレ!!」って言ってるワケじゃないってのもオモシロイところ。そりゃ、出ないにこしたことはないけど(笑)「こんなこと言っちゃだめだ」とか「上手く伝えられなかった」ことを否定する必要は無いわけ。

生命力って「存在の根拠を与え合う循環」だったよね。受け取り拒否したら循環がとまっちゃう。受け取って、そんでしかるべきベクトルで改めてつながる

その時つながる先、フォーカスするのが「言っちゃった」とか「言われた」って言う行為の部分じゃないのよね。そんでもって腹が立ったとか悲しいとか、相手の機嫌を損ねたっちゅう感情でもない。じゃあ、どこにつながる?ってハナシはこれから書くよ。ちょっと待ってね。

その前に・・・受けとめて、つながろうとする姿勢のことをNVCは「共感」って表現するんだけど、この言葉もヤッカイだからさ、それについて少し。

それは「共感」じゃあ、ない!!!!

NVCは「共感コミュニケーション」とも言われるんだけど、最初にこの名称を聞いた時の私の第一印象は「うっへ~~~苦手なやつだコレ」でした。私、女子会でよくある「わかるわかるー!!」ってノリが苦手で。

同じ気持ちになって喜んだり、はしゃいだり、一緒に悲しんだり、その同調っぷりを確かめ合って喜んだり、ってのが楽しめないんだな。親密さを確かめ合うための同意とか、場の雰囲気を壊さない気遣いの「共感」。

逆に共感力が強すぎてヘトヘトになっちゃう人もたくさんいると思う。相手の感情とか態度に敏感に反応してしまう「共感」。

しかーーーーし!!共感コミュニケーション(NVC)の「共感」はそういうことを言ってるんじゃあ、ない!!!同調も同化もしない方法で、相手のハナシに耳を傾けること相手に関心をもって接すること。それが、NVC的な「共感」なんです。

例えば、親友がめちゃくちゃ落ち込んでる。なんだか仕事が思うようにいってないみたい。そんな時「かわいそうに・・・」って気の毒に思うのは同情っていうよね。それは共感じゃない。

同情じゃないにしても、一緒に同じ気持ちに浸ってズーーーンと暗い気持ちになるのも(一般的にはこれを共感って言うんだけど)共感じゃない

「わかるわかるー!」って一見共感してるんだけど、実は自分の経験を照らし合わせた解釈だったり、ただ同意・同調してるだけだったりする。「わかるわかるー!私も・・・」と自分語りが続くヤツは、共感じゃない

私、同じ気持ちを感じるっていうタイプの「共感」ができないから、一生懸命「わかるわかる」ポイントを探しすことで共感しようと(NVC的には共感じゃないヤツ)しちゃってたなぁ。「仕事の仲間と全然話が合わない、辛い」っていう主人の言葉に、仕事してない私は「私ももし同じ立場だったら・・・」と想像して「わかるわかる、私もそういう場面きっとしんどいわぁ」なんて返してた。(これ、ついさっきやってしまったところ)

「相手の立場になって想像する」ってのも、NVCの「共感」とはちょっと視点が違うんだよね。

NVCのまとめを書きながらハッとした・・・これは共感じゃない!!!NVCが共感を向ける先、つながろうと関心を寄せる先は「感情」でも「意見」でもない。

NVCの「共感」は、感情にのみこまれて疲れることも、同じ意見を出せるようにがんばることもない。そういう生命力を疲弊させるつながりじゃなくて、存在の根拠を与え合えるつながり。生命力を高めあえる「共感」なんだった。

共感を向けるベクトルは「感情」でも「手段」でもない

生命力って「存在の根拠を与え合う循環」だったよね。受け取り拒否したら循環がとまっちゃう。受け取って、そんでしかるべきベクトルで改めてつながる。
その時つながる先、フォーカスするのが「言っちゃった」とか「言われた」って言う行為の部分じゃないのよね。そんでもって腹が立ったとか悲しいとか、相手の機嫌を損ねたっちゅう感情でもない。じゃあ、どこにつながる?

「この人はこういう気持ちになっているのか」と受け止める。「そんなにクヨクヨするなよ!」とか「こんなネガティブな感情はイケナイんだ!」ってのは感情を拒絶してるよね。

人の気持ちに同調しやすい敏感な人は、「こういう気持ちなのか」ってところから次のステップへ、フォーカスする先を変える。つながる先を変えるんだよ。

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そのつながる先、「共感」のベクトルが向かう先が「ニーズ」ってやつなの。これは「なんで落ち込んでるのか」って部分、感情の裏側にある「原因」のこと。

「手段」でもなく、「感情」でもなく、「ニーズ」にフォーカスする。ニーズにつながろうと歩み寄るのが、共感コミュニケーション(NVC)。

ただし!!ここでよくある勘違い、コミュニケーションの落とし穴。落ち込んでる「原因」ってのは「状況」のことじゃないってのもポイント。これが「ニーズ」っていう捉え方の、画期的でめちゃんこオモシロいところ。

「ニーズ」ってどういうこと?

英語でNeedsって言うと必要なもんってことよね。「社会のニーズにマッチしている」とかいうときのNeedsは「求められているもの、期待」ってことになるかな。NVCで言う「ニーズ」ってのは、「必要としているもの」「満たしたい欲求」「大事にしたいこと」

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ニンゲンなら誰だって持ってる、普遍的で根本的な「想い」みたいなもの。だからニーズは「犬が飼いたい」とか「メールの返事を早く返してほしい」とか具体的なことじゃなくて、「触れあい」とか「秩序」とか「交流」とか、かなり抽象的な言葉で表現されるようなものになる。

その時その瞬間に抱くニーズは人によって違う。同じニーズを抱いていたとしても、違う手段でそれを満たそうとして衝突するってこともある。やっかいなのは、私たちは自分の手段が「どんなニーズを満たすためにやっていることなのか」無自覚なことが多いってこと。だから、とんちんかんな手段で逆走しちゃうってことがよく起る。

だから「まずはニーズにつながろう、ハナシはそこからだ」ってのがNVCのコミュニケーション術。

「感情」は「ニーズ」を指し示すもの

「手段」でもなく、「感情」でもなく、「ニーズ」にフォーカスする。ニーズにつながろうと歩み寄るのが、共感コミュニケーション(NVC)

「共感」ってのは相手の「感情」そのものじゃなくて、感情の裏側にある「ニーズ」に耳を傾ける姿勢のことだったわけだけど、じゃあ「感情」についてNVCがどう捉えてるのかと言うと、これがまたオモシロポイントなんだよね。

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NVC的な捉え方で言えば、「感情」はニーズが満たされたときOR満たされなかったときに立ち上がるもの。満たされたときは「あ~嬉しい」とか「満足♡」とか「ホッ」て感情になるんだけど、満たされなかったときは悲しくなったり落ち込んだりイライラしたりしちゃうってわけ。

だから「感情」が湧き上がるってことは、そこに何か満たされたり満たされなかったりした「ニーズ」があるってこと。感情はニーズの目印なんだよ!

感情に対してはある意味「ドライ」な向き合い方って言えるかな。それは目印ってだけだから。「この感情はどんなニーズから生まれたんだろう?」ってふうにニーズに関心を向けるってことは、感情を一歩離れて見る視点が必要だからね。この「問い」を鍵に感情と自分とのあいだにスペースができるから、それだけでもかなり「効果」はある。

感情に振り回されるのは、なかなかつらいからね~

「批判」同様に、感情に対して否定したりガマンしたり隠したりする必要は無いってのもポイント。ガマンしたり抑え込んだりするのは一生懸命「感情」にフォーカスしてるってことじゃん?そうじゃなくて、注目するのはあくまでも「ニーズ」。その感情に紐づいている「ニーズ」につながること。

ひとたび「ニーズ」につながると、不思議と感情が落ち着く。これは私の個人的体感なんだけど…感情がニーズを指し示す目印なら、その役目を果たして必要なくなったからってことかな?

いやもちろん腹立つことは腹立つよ。ニーズがわかってても。それでも感情に飲み込まれてどうしようもなく辛い、コントロールが効かなくなる、みたいなことは無くなったかなぁ。

相手のニーズに関心を寄せる(=共感する)ってことは、例えば妻がイライラしてるのを見て「どうしよう!」とか「なんやねん、感じワルイなぁ!」って反応するんじゃなくて、「どうやって機嫌とろうかな」って彼女の感情に働きかけるんじゃなくて、「この感情はどんな満たされないニーズから湧き上がってきてるんだろう?」って視点で彼女につながろうとするってこと。

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「わかるわかるー!」で済ませることがコミュニケーションじゃないんだ。わからないからこそ、違うニンゲンだからこそ、相手には相手のニーズがあるんだって認めるところから、「つながり」を模索する。そこから、コミュニケーションが(やっと!)始まる

ニーズにつながって初めて、私たちは望ましいコミュニケーションを立ち上げることができる。生命力を高めあうつながりを、創り出すことができる。

「まずはニーズにつながろう、ハナシはそこからだ」

その人の「感情」の原因はその人自身の「ニーズ」

「掃除の邪魔!」って言って夫にイライラを表現する妻の例でいこう。夫は寝転んでテレビを見ていた。このとき妻がイライラの感情を抱いたのは、「夫が寝転んでいたから」じゃあ、ない!…ってマーシャルは言う。

ここで「??」となる。

外的環境、他人とか状況ってのは、感情の原因そのものじゃないんです。

感情は満たされないニーズから立ち上がる、だったよね。妻の中に大切にしているニーズがあって、それが満たされなかったから、感情が引き起こされた。ってことはね、自分の感情は自分のニーズが引き起こしてるってことなのよ。

そんなこと言ってもねぇ、夫がゴロゴロしてなかったら私のニーズが満たされない、なんてことも起こらなかったんじゃないの?って言いたくなる。

事実というものは存在しない。存在するのは解釈だけである。
― ニーチェ

ここがね、ムズカシイんだけどオモシロイところなんだよ。
感情って、出来事を(自分のニーズを元にして)どう解釈するか、が現れてるだけなの。だから自分の感情=自分の解釈。感情はMade fromジブン。

自分の感情は、自分のもの。
(自分の感情に責任を持てるのは自分だけ)

だからね、「私はあなたのせいでイライラしてる!」ってのはチガウで!!ってこと。「私がイライラしているのは、私の中に〇〇というニーズがあるからだ」ってだけ。自分の感情の原因(責任)は、自分にある。

同じように、相手の感情は、相手のもの。
(相手の感情に責任を持てるのは相手だけ)

つっぱねろ、とか、相手の感情ムシしてOKってことじゃないよもちろん(笑)ここでいう「責任」ってのは「オマエガ悪イ!!!」って責める正当性のこといってるんじゃいの。Responsiblity(責任)は、Response(応答)のAbility(能力)のこと。それに応えられるチカラが誰にあるんだってこと。

相手には、その感情を受け止めてニーズにつながるチカラがある。私にも、私自身の感情を受け止めてニーズにつながるチカラがある。そしてニーズにつながって、それを満たすチカラが、私たちにある。

これもアレだね、「存在を肯定しあう」つながりだね。そう、生命力を高めあうつながり!相手の感情を請け負って、「私が彼の機嫌をとらなきゃ」ってなったり、「私がガマンすればあんたは満足なんでしょ(あなたのせいで私はガマンして苦しんでいる)」ってのは、お互いの生命力を奪い合うつながり。お互いの、だよ。

あ~、耳が痛い(笑)私もつい最近まで「私に何も話してくれないからさみしい(=私がさみしいのは相手の責任)」って目で夫を見てたから(;^ω^)自分と改めてつながってみるとね、「私がさみしいのは、会話を楽しみたいってニーズが自分の中にあったからだ」って思い至ったの。

えー、それで解決するのかい?!って思うでしょ?それがさ~するんだよ。なんでかな?自分のニーズにつながったってだけで、まず「そうだったー」ってふっとゆるむんだよね。相手を変えようとするんじゃなくて、自分のニーズを否定するんじゃなくて、「そうだったー」って気付いた(つながりなおした)だけだったんだけど、世界が好転するんだな。自分の中で詰まっていた生命力が回りだしたのかもしれない。そりゃそんな簡単に変化しないことも多々あるだろうけど。

感情を受け止めて、ニーズにつながりなおすこと。ニーズにつながることで自分の内側がすごく癒される感覚は、やってみればわかると思う。癒しというか、鎮魂というか。

それから相手の感情は相手のもので、自分は相手の感情の責任をもう必要がないってこと。感情に注目するんじゃなくて、ニーズに注目する。その上で、歩み寄る。これがみんな、生命力を高めてくれる「つながり」の創り方

「まずはニーズにつながろう、ハナシはそこからだ」(笑)

NVCの「視点」を自分の生活に取り入れる

結局NVCってのは、言葉の使い方じゃなくてコミュニケーションのスタートラインにたつための「ありよう」なわけで。やってみないとなかなかそのスゴサを実感できない。「NVCを実践することは、新しく学んだ外国語で生活するようなもんだ」って言ってた人がいたけど、まさにそんな感じ。

「生命力ってのは循環の中で立ち上がるプロセスだ」ってことを前半で長々と(笑)書いたけど、つながりも「プロセス」だと思うんだ。パーフェクトでビューチフルなつながりがバシッ!!と決まらなくていい。何度もつながりなおして、結び直して、そうやって世界に向き合うこと自体が、「循環」の一部になって、そこから生命力が生まれるんじゃないかな

トライ&エラーでなんぼ!2割上手くいけばプロ野球選手の打率並み(笑)

NVCはもちろん「心構え」だけじゃなくて具体的方法も示してるからコミュニケーション術って言われるわけです。NVCの手法ってのは4つのプロセスに分解できる。

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観察:解釈せずに出来事を眺める

自分の価値観に照らし合わせた評価とか、意見を挟まんっちゅうことですな。実はこの最初の「観察」ってシンプルな行為がまずムズカシイ(笑)

△夫がテレビを見ながらダラダラしていた
⇒ 夫がテレビを見ながら寝転んでいた

△上司が私を大声で罵倒した
⇒ 上司が私に「〇〇〇」と言った

△息子はいつも靴下を脱ぎっぱなしにして部屋を散らかす
⇒ 息子は平日の帰宅後(週に4,5回)靴下を脱いで床に置いておく

△あの人がやる気のない態度で仕事をした
⇒ あの人がため息をついて椅子に座って書類を書いていた

△ママ友に無視された
⇒ 私が「〇〇」と言った。彼女は何も言わなかった

診断、評価、解釈を挟まずに事実だけを切り抜くのが、観察。私にNVCを教えてくれた人はこれを「ビデオテープに映った部分だけ描写する」って言ってた。

感情:ありのままに感じたことを受け止める

感情モニタリングで気をつけないといけないのは、「それ感情じゃなくて思考だよ」ってのも混ざっちゃうことがあるってこと。

△バカにされたように感じた
⇒ 悲しかった

△ありえない!って思った
⇒ 驚いた

△愛されていないと感じた
⇒ さみしかった 

他人の感情に対して自分が「罪悪感」や「羞恥心」を抱く必要は無い、ってのは先に述べた通り。そして自分の感情を他人の責任にもしないこと。ただシンプルに、どんな気持ちだった?ってのを自覚する。

ニーズ:感情の大元になってる「大切にしていたこと」

NVCジャパンが公開しているニーズリストが参考になるよ。ここでポイントは、ニーズには具体的な手段が出て来ないってこと。特定の誰かとか条件が入るのは、ニーズじゃなくて「手段」だよ。

ここまで「観察」「感情」「ニーズ」がつながったら、こんな感じで整理してみよう。これだけで、世界の見え方180度変わるから(笑)

(出来事)のとき、私は(感情)と感じた。
それは自分が(ニーズ)を必要としているからだ。

この視点って、自分に「主権」を取り戻してるんだよね。自分の人生を自分が担っているって感覚。ヒトがなにより精神的ダメージや苦痛を感じるのって、「自分が状況をコントロールできていない」と感じる時なんだって。

他者(環境)が自分を決めつけて、勝手に動かして、展開させている状態。それを私にはどうしようもできない、って無力さを感じる時。

でもね、

(出来事)のとき、私は(感情)と感じた。
それは自分が(ニーズ)を必要としているからだ。

このとき自分が描写している世界は、他者にコントロールされている世界じゃない。自分が自分の立ち位置で、自分の世界を描写しているから

リクエスト:伝える

さて、自分のニーズにつながることができたら、それを満たすために相手に協力を仰ぎたいよね。本当に大切なことはなんなのか、そこを抑えたうえで、感情的にならずに伝えられればベスト。

ここからがNVCの活かしどころなんだけど、ここがいっちばんムズカシイところ。(私はまだ、リクエストまで実践がすすんでいない…!!)いくつかポイントがあるから、それをおさえとこう!

★リクエストは、肯定的で具体的な内容で
「部屋ぐちゃぐちゃにしないでほしい」は否定的で抽象的なリクエスト。「部屋を綺麗にしてほしい」は肯定的だけど抽象的だから伝わりにくい。「食べ終わったお菓子の袋は、食べ終わったらすぐにゴミ箱に入れてほしい」ってなふうに、肯定的で誰が聞いても同じ解釈ですぐ実践イメージがわくくらい具体的な内容が◎

★リクエストを受け取るかどうかの選択権は相手にある
やっちゃいがちなんだけどね・・・自分のリクエストにYESというかNOというかは相手が決めること。それを「YESの選択肢しか与えませんけどね」って言うんじゃ、それはリクエストじゃなくて強要

相手に強要する、選択肢を与えずにコントロールするのは、暴力なんだよ。自分のニーズは、相手には押し付けられない。だって相手にも相手のニーズがあるんだもん。

★手段はひとつじゃない!
案外盲点なのは、手段ってひとつじゃないの。手段にこだわると先に進めないけど、ニーズを第一に考えるとふと第三の道が見えてくることがある。(それが結構ある!)

私は私のために生き、あなたはあなたのために生きる。
私はあなたの期待に応えて行動するためにこの世に在るのではない。
そしてあなたも、私の期待に応えて行動するためにこの世に在るのではない。もしも縁があって、私たちが出会えたのならそれは素晴らしいこと。
出会えなくても、それもまた素晴らしいこと。

― ゲシュタルトの祈り

歩み寄り方の基本的な流れはこんな感じ。
(1)自分のニーズを伝える(手段ではなく、ニーズの部分
(2)相手のニーズに関心を持つ
(3)お互いのニーズを正しく把握できているのか確認する
(4)リクエスト

息子がさ、私が洗濯物畳んでるとそこにダイブしてくるのよ。。。
それに「ちょー!!ぐしゃぐしゃにせんでよ!!」って反応して、息子もさらにふざけて、しまいには叱られて泣くループだったんだけど、NVCの視点で歩み寄ってみると・・・

①観察
△息子が洗濯物をぐちゃぐちゃにした、家事の邪魔をした
⇒私が洗濯物を畳んでいるとき、息子は畳んだ洗濯物の上に倒れこんできた

②感情
△また最初からたたみなおすのメンドクサイと思った
⇒がっかりした

③ニーズ
・秩序、整理整頓(きれいにしたい)
・スムーズな流れ

④リクエスト
(1)(出来事×感情を分けて)ニーズを伝える
「洗濯物の上に寝転んだら畳んだお洋服が崩れちゃったよ」
「ママおうちをきれいに片付けたかったから、がっかりしたの」
※相手の行為のせいで自分の感情がこうなった、みたいにならんように注意

(2)相手のニーズに関心を持つ
「遊びたかった?」「ふわふわの気持ちいい感じを楽しみたかった?」「ママにこっち見てほしかった?」

(3)お互いのニーズを正しく把握できているか確認する
たぶん、相手のニーズもいくつか考えられると思うんだ。だから、こういうニーズだろうか?って聞いてみる。意外に自分の思ってた理由と違ってたりするんだよ、これが。
マーシャルは調停の場面とかでこのやりとりを丁寧にした。ほんと、伝えたと思ってても伝わってないもんだから。相手が自分のニーズを間違えて受け取ってないか?自分も相手のニーズをちゃんとわかっているのか?
これを確認しあう事こそが、コミュニケーションにおける言葉の役割なのかもしれない。

(4)リクエスト
いやぁ、これ実例なんだけどね、私(1)までしか実践できてなかったの。(2)もぼんやりと考えたけどね。これだと二人の間に「つながり」は創られてない。そのあとがやっぱダイジなんだわ。

仮に彼のニーズが上の3つ「遊びたい」「ふわふわ触りたい」「関心を持ってほしい」だとしよう!私が歩み寄れるのは、「遊びたい」と「関心」。ふわふわ気持ちいいのは分かるけど、洗濯物の時は勘弁してほしい(笑)

だからこうリクエストしてみよう。
「ほんなら、遊んでほしいときとか見てほしいときは・・・」どうしよっか?私は息子に選ばせるかなぁ。多分ちゃんとアイディア出してくれるから。

深い部分でつながるコミュニケーション

手段でつながろうとすると対立することが多い。感情でつながろうとするとヘトヘトになることが多い。だけど、ニーズでならお互いのエネルギーを奪うことも弱めることもなくつながれる。高めあえるつながりが創り出せる。

相手を否定しない。自分を否定しない。相手の中にある想いも、私の中にある想いも、違っていてもそれぞれに大切なんだって尊重しあえる関係。

考え方や価値観に同意できなくてもいい。これは同意や合意のための交渉スキルじゃないから。解決策はすぐに出ないかもしれない。時間はかかるかもしれない。でも、私はそのプロセスに前向きなエネルギー、「希望」を感じる。

深い部分でつながるってのは、切っても切れない関係やしがらみになるってことじゃないよ。なんだろーな、表面的に全く違うことを考えて全く違う活動をして別々の時間と空間、人生を生きててもOKなの。むしろ、その自由を与え合えるのが「深い部分でのつながり」なんじゃないかな。

ん~、実践あるのみ!こういうのって、「失敗しても大丈夫!」って安心できるコミュニティがやっぱりすごく力強いサポートになると思うんだ!バッティングセンター的な!

NVCのトレーナーやファンの人たちが色んなカタチで提供してるんだけど、私も小さな小さなグループで練習できる仲間がほしいなぁ!!【星の読書会】新規プロジェクトで立ちあげてみようかな( *´艸`)どきどき

最後に、古代中国の思想家、荘子の言葉。

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