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「あの世」のはなし

占星術で生命力は「火(乾)」
誕生を表す1ハウスは、「火の始まり」を意味する牡羊座。その生命がどこから生まれたのかと後ろを振り向けば、円盤の終着地12ハウス。
全てを溶かす「水(湿)」の魚座。

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先月の満月図に絡めて書いたのは、火と水の狭間から始まる「生命」のハナシ。自我とか意識を象徴する太陽は、こっち側の世界だから「火」。無意識とか本能的な反応は月。月は「水」あっち側の世界。

あっち側とこっち側。彼岸と此岸。今日はあの世の、水の世界のハナシ。

去年まだ息子の寝かしつけをしていた時(今は父が寝かしつけ担当)、おやすみタイムに『ずーっとずっとだいすきだよ』って絵本を読んだ。お話の中で犬のエルフィーは老衰で死んじゃうんだけど、息子は年を取ったら死ぬってことを初めて認識したらしく、えらく驚いていた。

「はっぴぃ※も、死んじゃうの?」
※息子は物心ついた時、というか喋りだしたときから私のことを「はっぴぃ」と呼ぶ。なぜなのかは謎。

私はすぐに死ぬつもりはないから、「ずっとずっと先にね、おばあちゃんになったらね」と答えた。しばらく黙って、ため息をついたりギューッとくっついてきたりゴロゴロしていた息子。

それから思いつめたように「〇〇(息子)はね、はやくあお組さん(年長組)になりたい」「はやく5歳になりたい」って言うの。

「そしたら、はっぴぃに追いつく。ダッディ(父)とはっぴぃがいちばん大きいから、先に死んじゃう。死んじゃったら、〇〇はひとりになっちゃう・・・。〇〇、ひとりぼっち、・・・いや。はやく大きくなって、追いつく・・・」

胸が苦しくなって、抱きしめて泣いてしまった。

あいまいな境界線

日本人の古い死生観は、生者の世界と死者の世界が曖昧なんだよね。だって、あの世とこの世は「坂道」で繋がっているから。

日本神話でイザナキは、先立った妻イザナミに会いに黄泉の国に行った。見るなよ、見るなよ、と言われて見ちゃうパターンのストーリーなんだけど、その黄泉の国の出入り口として描かれているのが、黄泉平坂(よもつひらさか)。

島根県に実際にその黄泉平坂がある(!)んだけど、深淵をのぞき込む急斜面ってわけではなく、ゆる~い傾斜の坂道なんだって。(島根、行ってみたいな!)

日本人の死生観って、DEAD OR ALIVE!!こっから先は地獄じゃ天国じゃとバリッ!!と境界線をわけてない、あわい感覚だったんじゃないの。波打ち際の、陸と海の境目みたいに。

原初生命のはじまりが、「乾」と「湿」のぜつみょ~な混ざりけの中で生まれたように。

だから、ホロスコープのカスプ(境界線)も「〇度前ルール」かなんか知らんけど、結構曖昧に読んだりするのかね。

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きっと、便宜上線引きはしてるけど、生命に即して見るのなら、ハウスの境目だって色のグラデーションみたいにハッキリと線引きできないもんなのかもしれない。だって、生命って0と1で割り切れない部分、はみだしちゃう部分とか、閾値以下の刺激で気付かずに素通りされちゃう部分とかがあるんだもの。

「よみのくに」に描かれるあの世

そのあわい「なにか」を感じ取るセンスについて、能楽師の安田登さんのハナシがすっごくおもしろくって。

黄泉の国の「黄泉」って漢字は当て字で、これは中国の死生観、地下にある隔絶された死者の世界を言い表してるんだけど、古来日本の「死」はそんなふうに一方通行で絶対的な隔たりのある世界じゃなかった、って言ってるのね。

地上⇔地下っていう垂直方向じゃなく、坂道でゆるく繋がっているような、地続きで「あわい」向こう側の世界。

根の国は、その入口を黄泉の国と同じ黄泉平坂(よもつひらさか)としている記述が『古事記』にある(大国主の神話)。しかし六月晦の大祓の祝詞では根の国は地下ではなく海の彼方または海の底にある国としている。
―Wikipedia 『根の国』

ニライカナイですな!

「根」の国と表現されるのは、地下のイメージに引っ張られた当て字では?という説もある。「ね」の国。コトバンクに掲載されている日本大百科全書(ニッポニカ)からの引用によると、「根源または大地」と言う意味の「な」が転じた、って書いてある。

「ね」で、「根源または大地」と聞いて、ふと十二支の「ね」はどこに対応するのかな?とググってみると・・・ICに子か?MCに子か?2パターン見つけた(笑)この流れで行くんなら、IC=子に一票!!めちゃんこしっくりくるやん、根源と大地。

寄せては返す波の向こう側

海の向こうに死者の世界がある、というイメージはその境目が波打ち際なんだよね。コンクリートで固められた防波堤ではなく。それがオモシロイなぁって思う。

波の打ち寄せるリズムって、1分間におよそ18回なんだって。

落ち着いているときの人の呼吸も、ちょうどそれくらい。吸って・・・吐いて・・・。だから海の音ってリラクゼーション効果があるのかね?呼吸のリズムと、波のリズム。

呼吸は言うまでもなく、生命維持に直結する活動。生まれた瞬間にオギャー!っと吐いて、海の向こう側に帰る時は息を「引き取る」。寄せて引いてのくりかえし。

そもそもワレワレは海の向こう側(羊水)から出てきたわけだ。海水と羊水の成分比率がほぼ同じなのは、象徴的という言葉を超えてまさに神秘的。そして原初生命も、水の境目から生まれてきた。

海は、無意識の象徴。無意識を、占星術のコトバで「月」という。月は、母親の象徴でもある。母なる海、なんていうように、ニンゲンは海にハハのイメージを重ね合わせる。

「ははのくに」は愛の世界

日本神話シーズン2は、イザナキの生んだ三貴子の末っ子スサノオのワガママで始まる。おかあちゃんに会いたい、会いたい、オレはハハの国に行きたいんだ!!といって父の言うことをきかない。そいでスサノオはイザナキ父ちゃんに感動されて、ハハの国に行くことになる。

出発する前に姉ちゃんに挨拶してくか、ってことから大騒動起こしてさぁ大変…なんだけど、ここでは割愛。

あの世、死の世界は、命の根源ハハの国でもある。占星術の12ハウス、魚座の世界。魚みたいな胎児をぷかぷか育む、絶対的な安心感。愛の世界。あの世ってやつは、愛の世界だった。

あわくつながる「よみのくに」

「ヨミ」の語源にも、「夜見」とか「闇」とか、いろいろ説があるんだけど。その中で好きなのが、「四方」。四方山(よもやま)話の、よも。四方八方の、四方。あちこちに、って意味だよね。

弥生以前の文化だと、生活の中心に墓地があったり聖地(まつりの場)があったりする。死、というと今はどうしてもネガティブな暗いイメージだけど、昔々はかなり身近で、「あの世」だって境目がハッキリしないあまねく存在する世界だったんだと思う。

あっち側とこっち側という世界観は、自然観にも関係してくるのかも。循環する自然観が残る村の「物語」を集めた遠野物語を思い出した。

山の上の聖地、姥捨て山、霊山の思想・・・坂の上の地続きの場所にあの世があって、あっち側のチカラは降りてきたり、こっち側から迎えに行ったりできる存在。

日本とか他の地域の古い思想に「祖霊信仰」って考え方がある。それもあの世とこの世があわく繋がっているからこそのイメージだったのかもしれない。今はほとんどがぶった切られて、不気味なオカルト話ばかりなのがさみしい。

らせん階段をのぼる

12ハウスのあの世から1ハウスに生まれ出でて、ホロスコープは円状に描かれる。でもこれ、2次元(平面)で書いてるから円盤なんであって、立体的に見たら螺旋状になってるんとちがうかな、って思うの。

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12サインの推移は成長過程になぞらえられるんだけど、ぐるっとまわって帰ってきたそこはもう出発したときとは完全に違う場所のはずで。生と死、火と水、過去と未来、両方を勘定に入れてようやっと次のステージをまたスタートするんでないのかな。起きて、眠って。自我と無意識、あっち側とこっち側を行き来しながら。

One day One life, Everyday New day
- ネイティブアメリカンのことば

朝日と共に、毎朝生まれ変わる命。繰り返しだけど、繰り返しじゃない。「朝」という漢字を組み立てている「十月十日」、これはお腹の中の赤ちゃんが生まれてくるまでの日数。

Ascに日が差し込む。私が、生まれる。

毎年お盆になると、こんなことを考えてるなぁ。DNAのごとく螺旋状に、途切れのない生命の生き証人であるワレワレ。

読んでくれて、ありがとう。生まれてきてくれて、ありがとう。


もりもり書くエネルギー(''◇'')ゞ燃料投入ありがとうございます!!