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差別の種まき

最近よく遊ぶ友がいる。
まぁ何をする訳でもなく、只飲んだり語ったりゲームで遊んだりする年の離れた異性の友人。

あ、色っぽい事はお互い興味が無いので成立している関係。

先日もその友と飲み、しょうもない話をしていたのですがお題がSNSで良く見るケンカの差別に関して。

それは差別志向だ!差別の定義を!と各々の正義や道徳でケンカをしているが明確な定義が結局個人の正義による所が多い。

そうなってしまえば只のケンカにしかならないのにねぇと語り、飲みながら議論を重ね同じ見解に至る。
飲み屋での酒飲み同士の与太話なので記事にするまでも無いと思ったのだが
友の

「記事のネタになるやん」

という甘い誘惑に負けて入力している次第。

さて、本題の前に差別とは何か?の前に批判に当て嵌めてみる。

ある人物が社会通念上やそれを知った人の正義感や道徳心に反する行為をしていたとする。
法律で裁かれるレベルかそうではないかは関係ない。
ただ、自分の内心に納得できない行動を目にしたとする。

そうした場合どんな感情でもいいが、許せない思いが自身で抑えられない場合相手に対して「批判」という行動に出るとする。
今はSNSの時代なのでその行動のハードルが低いのもあり、その世界では他者への批判に溢れている。

その「批判」こそが差別という雑草の種になるのではないか?と。

例えば批判する相手の行動の結果、だけではなく相手の性別や属性、容姿や家庭環境、過去の発言や信仰まで引き合いに出し批判をした瞬間に私もそう思うという「共感の支持者」が発生する。
何故そうなるか?は簡単で楽だからだろう。
その人が起こした状況や結果を冷静に、論理的に思考し批判するより感情に任せ男だから、女だから、容姿がこうだから、家柄がどうだから、信仰している宗教がこうだからと結び付ければ割合と言うデータが簡単にネットで手に入るし自分なりの「真実」に紐づけられる。

そう言う人からすると自身の批判は「データに基づいた正確な批判」という事になるし、そうなれば共感を得られやすい。

その発生の時に起こるのは差別という種の共有ではないだろうか。
結果だけではなく、それ以外の事柄を個人の感情と結び付け批判の対象に入れた瞬間に差別という雑草の種も共有する。

その種はあっと言う間にその人や共有した心に根を張り、同じ差別の芽が生まれ同じ葉や実を付ける。
そこから同じ種が生まれ共有される。

共感と言う殻で覆われた差別の種を受け取らなかったり、同じ模様の枝葉や実がつかなかった人間に対しては排除の心が生まれる。

これが批判と差別、そして誹謗中傷の違いが分からない人の根源ではないだろうか?という友との議論の共通点。

僕も友も独身だし今後も結婚し子供を持つ事もないので、仮の話になるがもし子供が居たら
「相手の性別や属性、声の大小や家庭環境、信仰を引き合いに出して批判している人が居たら距離を取りなさい。
その人は批判という皮を被って共感と言う差別の雑草の種を撒く無自覚な共感病に罹患した差別主義者です」
と教えるだろう。

まぁ自分への戒めでもあるけども。