見出し画像

滴したたり落ちて

梅雨(セカンドシーズン)も終わりかけなので、いろいろ思ったことを書いてみようかなと。久々に。note更新してなさ過ぎなんだよな……。「思考のゴミ置き場」が大分長いこと空っぽだった。というかゴミ置き場に入ることもなく放り出されていつしか消えていった。

……上の文章を書いてたのが去年。「思考のゴミ置き場」の存在すらなかったことになってホコリが積もりに積もってた。なんでだ???? noteを開くより前にTwitterに思ったこと垂れ流しすぎなんよな……。でもそこから延々放っといたら梅雨が史上最短になるやらもっかい跋扈するやらで、僕が書き出した当時思っていたときより「雨」が自分の身近な存在になっていた。いろいろ思うことも増えた。結果オーライ!!()

そもそも古くから、日本の文化は雨に対して敏感な感性を持っていたように思う。英語で「雨」を表現する単語は、ほぼrainかraindfallに限定される(多分。英語学方面には明るくないのでこれで許して……)。激しさや降る季節に応じて雨を呼び分けるには、a thin rain(糸のような雨)、a rain season(雨季、梅雨)と複数の単語を用いるしかない。
しかし日本語はどうだろう。季節だけでも、五月雨、梅雨、夕立、秋雨など、降り方に焦点を当てたら、時雨、長雨、豪雨、霧雨、などなど……たった一つの気象現象を形容するのに、これほどまで多くの言葉が存在する言語はそうないのではないだろうか?
言語の種類の細かさは、それを操る民族がどの概念を重要視しているかを映し出す。英語と日本語の「ひげ」の例とかね。日本語の「雨」の表現の豊かさは、四季の変化に富んだ気候に親しんできた日本人の、自然に対する感性を表象しているといえよう。ま、今は全部「ゲリラ豪雨」で一把一絡げにされるのかもしれないけれど。日本の四季がこれ以上歪んでいきませんよう。
僕は昔に比べ、雨の素敵なところ、美しいところも見えるようになった。昔より知識や経験が増えたことで、同じ情報からでも得られるものも増えてきたからだ。でも、それを敷衍して、誰にもわかるように示した表現者はこの世に溢れている。

僕の中で最もそれを強く印象づけたのは、『言の葉の庭』(新海誠監督)という映画だった。『君の名は』『天気の子』で国民的アニメ映画監督の地位を得た彼の、そのひとつ前の作品。
雨の描写に一目で心を奪われた。まるで実写映画のように、したたり落ちる滴。吹き荒れる夏の嵐。雨の滴が艶めかせる木々。ストーリーも演技ももちろん素晴らしかった。主役二人は入野自由と花澤香菜だったし。でも僕は、ビジュアルで真っ先に心を掴まれてしまった。その繊細さと、「雨」のイメージを掬い取る色彩と、見えないはずの暖かさに。
『何度観ても飽きない映画、とはこういうものか』と初めて感じた。上手く歌えないのに、秦基博の『Rain』は今でもカラオケの十八番だ。ノベライズ版も手に取り、隠された奥深い世界観に夢中になった。新海監督の世界観は、小説でしか表せないと思っていた部分を映像で実現させたところに凄みがあると思う。2セメスターの般教で書いたレポート、4000字以上のところが7000字越えになったのは、間違いなくこの作品をテーマにしたからです。あらすじを長く書きすぎてその時点で字数超えてた。愛が重い。
部活の後輩が使っているPCのデスクトップがこの映画の画像で、思わず声をかけたこともある。自分だけの宝物じゃないことが、嬉しくもあり、寂しくもある(これだけ有名ならそらそう)。でも他の新海作品のなかでは知名度低い方なんじゃないかな、特に『君の名は』と『天気の子』だけしか見てない人は是非見てほしい、僕は3つ観て、『言の葉の庭』が一番好きになった。一番短いし一番(この中では)古いのに。

雨降る国、日本。低気圧に翻弄される側の人間としては、頭痛薬といざというときの上着が手放せないが、それでも「雨がなくなってほしい」とは不思議と思ったことがない。それはたぶん、日本では雨が降ると「みんな同じ」になるからかもしれない。
低気圧のことではない(できることなら関わりたくない)。頭の上に乗っかる傘のことだ。

小雨程度では傘を差さないイギリスや、スコールが頻発する熱帯地域とは違い、日本や東アジア圏では雨が降ると人々は必ずといっていいほど傘を差す。この国で差される色とりどりの傘は、それすらも個性の表象になってしまう。梅田で信号待ちをしているときなど、周りを見渡せば自己表現とパーソナルスペースの集合体に囲まれている。そのなかで自分の存在をアピールすることに息苦しさを覚える自分は、やっぱり社会生活を営むにはちょっとしんどい存在なのだろうか。
でも、傘の中身がどんな人であれ、真上から見たらみんな同じ、八角形や六角形。そう思うと、なんだか少し、愛おしくなる。限られた面積の中でめいっぱい自分をアピールする人も、そんな人を横目で見て、早く青信号にならないかとだけ考える自分も。大金持ちも貧乏人も、雨という大いなる自然の中では、傘という頼りない道具に自分の身を委ねるしかなくなる。たとえ傘がなかったとしても、いるのなら恋人や親しい人に、パーソナルスペースを分け与えられて、自分の身を守ろうとする。
そんな人間たちは、天からはどんな風に見えているのだろう。大きな如雨露を使って余分な水分を地上にバラ撒いている、天からは。

いろんなことをとりとめもなく書いてきました。
あなたは、雨、好きですか?



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?