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酸性雨のブランディング・ローズ

初めて会ったのは、ポラリスマーケットに並ぶ花屋だった。地球からの高級な輸入品である生花は、木星では一部の裕福層しか手に入れられない貴重なものだ。売れる数も少ないので、店舗への仕入れもわずか。ツタンカーメン家に引き取られてから、珍しがって邸内に飾られる薔薇やカサブランカ、胡蝶蘭に見入る幼いソーヴィに気を良くした義父の静が、地球演習からの帰りによくプレゼントしてくれた。

成人してからはさすがにその頻度は減ったが、今でも誕生日やクリスマス、バレンタインデーなどのイベントには、服や靴、チョコレートやチーズケーキとは別口に華やかなブーケが送られてくる。早めに水切りをし、保存液の中に茎を入れる作業にも慣れたもの。花木も手入れさえ入念にすれば、それだけ美しく咲き続けられる生物なのだ。

その日は朝から酸性雨が木星の酸素に混じって、霧状の冷気が沈澱していた。エアコンダクターでかなり調整はされているが、それでも人工シャッターの外は零下10度になる厳しい環境にある。ソーヴィ・憂・ツタンカーメンは厚めのチェスターコートを着て、休日を持て余していた。現役パイロットをリタイアした退役軍人で構成される第04部隊には親しい同世代の友人もいないし、何より私生活において無趣味なので、攻撃型スカイラーに乗らない勤務外にどう過ごせばいいかわからないのだ。



「金持ちのご婦人ってのは、どういう花が好きなんだろうな」

一瞬、花が話しかけてきたのかと思った。なんとなく眺めていたのが久しぶりに見る極楽鳥花だったからかもしれない。「バードオブパラダイス」と別名を持つ鮮やかなオレンジとイエローの花から声の落ちた方向へ視線を上げると、結婚式のフラワーバルーンのようなヘアスタイルに視界を奪われた。

……初めて見た、ハイブリッド・グリフォンだ。

遺伝子組み換えで生まれた使役用のビースト・バイオロイド。地球外での過酷な環境下での労働に耐えられるように、AIがプログラミングした人間のクローンと動物の混在種だ。開拓時代に特に増加した犬と馬、牛ベースタイプを始め、愛玩用としては大人しい兎や猫などは珍しくないが、突然変異で現れるユニコーンやフェニックス、そしてグリフォンは品評会にも登場することがほぼない。大切な家宝として宇宙貴族や地球の王家が蔵に鍵を掛け、長く仕舞い込んでいるから。


「……その方の年齢、お幾つほどですか?」
「あ〜、普通の人間は早くに老けるだろ? 俺には100歳くらいに見えるけど、確か2240年代生まれだった気がする」

不思議だ、全く知らない初対面の人物とスムーズに会話している。まるでかつての同級生どうしのように。中高一貫の私立校、エスカレーターでカレッジまで進んだが、途中から軍属扱いになったので卒業式には出られなかった。親しくはなかったが、顔と名前を思い出せないクラスメイト達はどうしているだろう。

「壮年の世代なら派手すぎない季節に合わせたカラーリングと、匂いがあまりしない花が無難かな。カップの薔薇で小さいブーケはどうですか」
「詳しいのな、ありがとさん」
「余計なお世話ですみません。花は好きなので、育てるのも」
「木星で植物を見られるなんてな。まあ、確かにお高いわ」

ついつい咲き誇る彼の頭髪に視線が届いてしまいがちだが、一度染みる血のように深い赤の瞳を見つめると、圧倒的な眼力に引き込まれそうだ。生命力に溢れて力強く輝いている。だが威圧的ではなく、どこかくすぐったそうに微笑む目元を見て「この人、もしかしたら年下なのかも」とその若さに気がつく。

結局、グリフォンの彼はソーヴィのお勧めしたブランディングローズのミニブーケを買った。いつものアンドロイドが自分を認識し「ソーヴィ様、ようこそ。今日はお友達とご一緒ですか?」と二人を誤解したので、この店の常連だとバレてしまったはず。

「サンキュ、助かった。あんた、自分の買い物はいいの?」
「日常的に買えるものではないので、花は見学ばかりです」
「このサイズで一万デュべとはねぇ、ゴルドスに一泊旅行できるぜ」

自然の流れでマーケットのテラスを並んで歩く。酸性雨は止んでいて、労働者達が星外に出ている昼の街は静かだ。花屋を出てわかったが、トワレをつけているハイブリッダーもそういない。エルサイズ以上のビーストタイプは人間より力がはるかに強く、嗅覚や視力も特出している。人工的な香りを嫌ってアロマプランツにも過剰に反応するのに、グリフォンには無関係なのだろうか。

抜き身の太刀を連想させるスラリとした長身は、タイトなピンストライプのブラックスーツを見事に着こなしている。ツタンカーメンが参加した社交界で、子供の頃からたくさんのアッパークラスと接触し、義父の仕立て服を含めて様々なブランドを直接触れて肥えたソーヴィの目からしても一級品。背筋と腹筋がよく鍛えられているし、姿勢が良く、美しいウールシルクの光沢を肩で光らせていた。

……独特の歩き方、ランウェイのモデル並みに堂々としているけど隙がない。特殊訓練を受けているかも。元々は正規軍の配属とか? だけどどんなに出世してもハイブリッダーの立場ではこのスーツは買えないはず。本革の靴はイタリアン・ブランドだ、義父も持っているからわかる。

大きなはずの歩幅をソーヴィに合わせてくれているテンポで、花の種類を語り合いながら観察した。鍛えた筋肉に包まれた体格の中に、謎の空間が多い人物だ。それでも確かに言えるのは、自分が敵意を持たれていないこと。ソーヴィの感受性は子供の頃から人一倍敏感で、宇宙貴族の間を上手く渡り切りきるのに必要な武器の一つだった。

交差する星間飛行トレインの光線を真上に眺めながら、ジュピトリアン・ステーションの正門に入ると、これから火星に向かう彼と待合室のベンチに座る。自販機でお礼を奢ると言ってくれたので、遠慮せずにノンシュガーのハイビスカスティーを含む。

「気を悪くしたらごめん、あんたはサー・ツタンカーメンの家の子だろ。木星にいたとは知らなかったよ」

夕方のラッシュアワー前、誰もいないガラス張りのフロアで木製ベンチに腰を掛け、一息ついた絶妙なタイミング。計算していただろうその話術にも驚かされ、目の前のグリフォン・ビーストにもっと興味を惹かれる。ツタンカーメンの養子になって以来、こんなに他人が気になるとは。

「ソーヴィ・憂・ツタンカーメン少尉、よろしく。木星には去年から軍務職で。私もずっと、珍しいグリフォンについて聞きたかった」
「じゃあこれでプラマイゼロ? 俺もこの外ヅラで目立つしね。でも質問されても、あんたになら不快じゃないね」
「種族としてじゃなく、貴方がお洒落なハンサムだから注目されてるんでしょう」
「言えてる」

皮手袋を外し握手したグリフォンの手のひらは大きく、身長172cmのソーヴィと、おそらく180を超える彼との骨格や握力の圧倒的な差を痛感する。しかし威圧的ではなく、まるで遠く離れていた従兄弟との再会のような頼もしさで気持ちが満ちた。


「俺はマンジー、ファミリーネームはないよ。元火星海兵隊で伍長、退役したけどね」


あの頃の出会いを思い出すたびに、それから成人し190cmを超えた愁・アルマンゾの声変わりしたばかりの笑いが浮かぶ。季節限定発売のハイビスカスティーはあれから見なくなったが、茶葉を淹れると懐かしい。まさか自分が彼に字名とファミリーネームを授与するとは考えなかった。

上司と直属の部下になってからも、時々あのポラリスマーケットのテラスを二人で歩く。酸性雨は変わらず周期的にジュピトリアン・ステーションを濡らし、花屋もいつも通りに営業している。店頭にハイビスカスを見つけるたびに、ソーヴィも愁も、あの出会いからの重なる年月を感じていた。


アルマンゾの髪型が決まらない……


マダム、ムッシュ、貧しい哀れなガンダムオタクにお恵みを……。