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センス・オブ・ワンダーについて

ここ最近の自粛生活の経験から、この先の生き方を改めて考える人も多いと思う。良いこと、不便だったこと。家から出来ることへの可能性、教育のあり方、などなど。

ひとつ言える事は、人間は忘れっぽい生き物で。そんなこともすぐに忘れてまた元の日々に戻ろうとする。現に私の周りの日常はすでに取り戻されているようだ。(そうみんな思い込もうとしてるだけかもしれないけど。)

私の場合は、仕事を辞めて程なくロックダウンに入り、すごく長いお休みをいただいたような感じ。疲労し果てていた身体と神経が緩くなり、調子も良くなった。好きなゲームをしたり、絵を描いたり、料理を作ったり、ただただぼーっとしてみたり。


ロックダウン中、運動がてらに近所の公園へ散歩に行くようになった。
その間、オーストラリア人の家族も公園にたくさん遊びに来ていた。天気の良い日は特に。
子供たちの親といる時の嬉しそうな顔。もちろん、友達に会えない事は寂しいだろうけど、いつもは居ないであろうお父さんやお母さんがいる。それを見てるだけでとても和んだ。

散歩中は大好きな音楽を聴きながら歩く。そんな光景を横目で見ながらsumikaの『センス・オブ・ワンダー』が流れた。

センスオブワンダー。子供の頃特有の不思議と思うことへの探究心。感覚を大事にすること。
本は読んでいないから、ちゃんとした内容は知らない。
でも子供にとって、否定をされず、その子の感性を上手く伸ばす教育がどれだけ大切か私は身をもって知っている。
あのまま日本の教育を受けていたら、落ちこぼれていたと思う。

センスオブワンダーは子供の個性を一緒に探る大事な作業だと考えます。
今、親と言う立場である人々に、子供に黙らせることをせず目を見ていっぱい話をしてして答えてあげて欲しい。そんな風に思う。
電子機器を与えたり、詰め込む教育の見直しをするべきじゃないかな。と思ったのです。


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私には尊敬する母がいた。今も空からみてくれている。
母は頭も良く、行動力もあり、その上第六感まであった。私たち家族のことを良くみて、理解していてくれた。圧倒的大黒柱。大好きな人。
母のお陰で私は曲がらず、落ちこぼれずに育ったと思う。

4人きょうだいの3番目に生まれた私は上とも下とも歳が離れていて、実質ひとりっ子のような感覚で育った。当然1人で行動することも苦ではなくて、ひたすら空想の世界でぼーっとしているのが好きだった。少々危なっかしいところもあったと思う。
母は私よりも私をわかっている人だった。それ故、多分自分が知っている以上に心配させていたと思う。

姉と兄で経験したこともあったのか、3番目の私は特殊な教育を受けた。

母がオーストラリアに移住を決め、移り住んだのは9歳の秋頃だった。
両親は日本の未来を案じており、子供をこれ以上日本で教育させたくない気持ちを強く持っていた。

実質、私は小学3年生ですでに算数に引っかかっていた。
数式をなぜ解くの?何を求めようとしているの?そんなことばかり考え、意味もわからず、つまづき始めた。ペースについていけなくなっていた。考えることもままならず、たたき込むだけの学校や塾に暗い気持ちもあった。

学校生活は楽しかった。男友達とイザコザのない単純な遊びをするのが好きだった。でも勉強や習い事、それらにおいて私は抜きん出て得意と思える事はその時点でないと思っていた。自信をなくしていた。

母は私の気持ちを知っていたと思う。


9歳と言う微妙な歳に言葉も喋れない状態でオーストラリアへ移住。
公文で勉強していた英語は全く役に立たず、近所にあった公立の小学校にへ通い始めた私は、半年間何も喋らず聞くことにだけ集中した。日本人の同級生は全く日本語が話せず、助けてもらえることもなく。
ひたすら言葉をわかろうと必死だった。


4年生に上がった時、先生に恵まれ、下手でも良いからみんなと同じように読み書きをすることを薦められた。
分厚い辞書を引きながら簡単な文章を書く練習を始めた。その先生は私を外人扱いすることもなく、他の生徒と同等に扱ってくれた。私にはそれが何よりも嬉しかった。
同級生もみんな私を笑うことをしなかった。

日本では苦手だった算数だけなぜか得意な科目になった。数学のレベルは日本と比べて一段階低かったからだ。

否定も蔑んだりもしない教育環境。それは私を大きく変えていった。



5年に進級した時、知る人ぞ知るであろうドイツの人智学者、シュタイナーの教育を受けるべくシュタイナースクールへ転校。母が通わせたいと常々思っていた学校でもあった。

2年間、1時間以上かけて遠く離れた学校へ通っていた。
シュタイナーでの日々は特殊で、時間割も決まり事もなく、教科書もほとんど目を通すことない日々を過ごした。
先生は黒板に綺麗な文字、そして絵を描く。それを素敵な色鉛筆で模写していく。一年を通して、素敵な本が出来上がる。
水彩画の時間、お遊戯(オイリュトミー)の時間、好きなことをして各々の時間を過ごす時間、音楽を楽しむ時間、宗教の話、物を作る時間。全てが先生のさじ加減で行われる。
人間らしい時間の過ごし方をその時学んだと今では思う。絵を描くこと、物を手作りすることが大好きになったのもこの時で、私にとってはもっとも大切な時だった。

不思議な2年間を過ごした後、私は中学を迎える。

中学と高校の間にまた2回転校をさせられた。
母は次に私立のキリスト教の学校を私の為に選んだ。最初はカソリック、高校を卒業した学校はプロテスタントだった。

なぜ公立ではなかったのか、母は私には理由を教えてくれてはいないんだけど、今思えば圧倒的に騙されやすかったあの時の私を思えば、宗教の違いやその信仰の中に生まれるモヤモヤを母に相談して答えを見つけていなければ、何かカルト的なものに引き込まれていたかも、と思う。
無宗教でいるのはこの2つの学校に行ったからで、何かにすがり信仰しなくても私の信じる神様は存在することに落ち着いたのである。

カソリックの学校は、あまり好きではなかった。
日本の教育に近いところもあり、授業も厳しかった。

プロテスタントのキリスト教の学校は生徒数も少なく先生の授業もユニークだった。例えば、歴史の授業では『もしあなたがローマ時代のキリスト教徒ならばコロッセオで信仰を貫き死ぬことを選ぶか?』なんて事を聞かれる。
想像することや、嘘をつくこと、正直でいる事を反復するような授業が多かった。答えを自分で考えること、選ぶこと。それを言えるような教育。
一人一人意見があって、それを持つ事をちゃんと学ぶ。

科目も好きな科目を選び勉強をする。体育と科学を私は高校ラスト2年間しなかった。選ばなくてもよかったから。
そんな私でも単位を落とさずに大学に行くことができた。


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日本に6ヶ月住んでいた時、会社の人や同僚の旦那さんからいつも言われていたこと。

「外国育ちは違うね、物をはっきりと言う。すごいね」

ちょっと意味がわかんなかった。なんで意見を持ってないの?どうして言う事を悪いことのように蔑むの?

私はその時思った。

オーストラリアで育ってよかったなあ。と。

自由に考えることも許されない日本人。
好きな事を好きだとはっきり言わせてもらえない日本人。

センスオブワンダーを殺す教育なんだなって思った。

もし神様に許されて、子を持つことがあれば私は私の母がしてくれたように、迷う子供と一緒に答えを見つけていける人になりたい。
押し付けるではなく、探せるように。見つけれるように。

感性を伸ばす。良いところを見つけてあげる。褒める。自信をつける。

これからの日本の親御さんは子どもに進んでやってあげて欲しい事。
コロナ後の今だから考えなきゃいけない事。

私はそれで救われたから。

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