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東日本大震災から9年

こんにちは。
また3月11日がきました。
去年は絵を描いたりしたけれど、今年は引越などで余裕がなく描けませんでした(>_<)

せめてなにか投稿だけでも、と思っても当時の写真はすぐに出てこないし…と、
久々に思い出した旧ブログTumblrに残っていた当時の文章をこちらにも残しておこうと転載します。
(Tumblrの記事部分は5年、と言っているので2016年のものかと思われます)

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あんまり震災の話をするのは…と思いながらも、
5年という期間が過ぎた今、思い出すべき一つの機会かなと思って少しだけ。
今思うことはいろいろまだ言葉にならないけれど、
当時書き残していたブログがあったので転載します。
(前のブログはもう残ってないのだけど、やめるときに消したくないと思った投稿だけ一部文章として残していたのでした)

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2011年03月17日(木) 21時50分30秒
こんばんわ。みなさま、ご無事でしょうか?
あたしと、あたしの家族と、大切な友達・仲間は無事です。
…いろいろ迷いましたが、もし心配に思われている人がいたら、
はやく無事を伝えたいと思い、ブログを更新します。

上の写真は、3月12日土曜日、地震翌日の朝日新聞の一面。
あたし含め被災した方々は、何が起こったのか知らないまま、
数日を過ごしていました。 どこがどのくらい揺れたのか、どこが震源なのか、 停電した街の中では、知る術がありませんでした。
こんなに広い範囲で揺れたんですね。
テレビなどで情報が得られるようになり、 初めて自分が“無事”だったんだと気づかされました。
明日でもう一週間が経つなんて信じられない。
何もできずに、でも必死に過ごした詳細はツイッターにあります。
ずっと誰かといたのが、今ふっと一人になって、 初めて涙が込み上げてきました…。

まだまだ安心できないし、何も終わってない、これからなのに、 ここで見た大好きなキレイな景色や、そこに暮らす人たちが、 失われてしまったことが、悲しくて悲しくて仕方ない。
このブログにもいっぱい載せた写真の場所は、 もう写真でしか見られないんじゃないかと思うと苦しくなる。
でも、まだあたしはここにこうして生きている。
下を向いてばかりはいられない。
できることをしなきゃ、ね。

幸い、あたしには仕事があるので、できることをやる。 今回のことがあって、仙台の人たちから必要とされてるって、 実感することができたので、頑張るしかない!
まずは元通りの生活を取り戻す!
そして前よりもっとよくしたい!
できるかできないかじゃなくて、やらなきゃ!だよね。
宮城以外でも余震が起こったり、停電、原発、物資不足…と、 不安が多いですが、みなさまくれぐれもお気をつけて。
遅くなるかもしれませんが、またブログ書きます。では。
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ツイッターは、ちょうど2011年の1月から使いはじめました。
まさかこんな風に役に立つとは思わなかったけど、ツイッターで連絡くれた友達もいたし、いろんな情報得る手段になってくれました。
いまやグチとか多くて反省です…。
伝えるにも何かを残すにも、こういうことにおいてはSNSは便利ですね。
いろんなきっかけで、いろんな人とつながって、今ここにいることに感謝。
まだまだここから、アナタに届くまで動き続けるよ。

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…なんかこっぱずかしくもありますが(笑)
2016年には、まだ結婚するともアフリカに来るなんて思ってなかったかもなぁ。

もちろん当時は、この先どうなるか全くわからなくて。
むしろ今どうなってるのかすらわからなくて。

もう9年前のTwitter遡れないのであたしの2011年3月11日から数日を補足すると、

仙台の某電気屋さん勤務中に震災が起きて、停電、店内も危険なので駐車場に避難
 ↓
雪降って凍えそうになるも、余震もあり荷物取りに戻れない
 ↓
ちょっと落ち着いて、お店は閉店、解散。
駅のすぐそばなので電車動いてないのは見てわかり、
同じ売場の電車通勤組の後輩女子をみんなうちに連れて帰宅。
 ↓
仙台駅から徒歩10分のマンションはあちこちヒビ入ってたけどなんとか無事。
たまたま駅前にいて帰れなくなってた妹もうちに来て、
5〜6人で雑魚寝するもサイレン鳴り響いてほとんど寝れなかった。
 ↓
翌日明るくなって(日が昇るだけでこんなに安心するのかと初めて思った)、
家族と連絡のついた後輩たちは帰宅するも、
妹と、元同期の女の子(横浜から12日にある同期の結婚式のために来ていた)は残る。
 ↓
食料もなくなって、このまま数人でいるのは難しくなる
避難所のぞきに行くも、ものすごい人でこれも難しそう
どうしよう、あたしが判断しなければ…(いろいろピーク)
 ↓
公衆電話から山形の実家に連絡がつき、被害が少なかったことを知る
妹と帰れない元同期も連れて、実家への避難を決断。
 ↓
バスを何時間も待ち山形へ。一安心。
 ↓
でも、帰れない元同期は、山形経由でも帰れなそう…
さてどうする???(2度目のピーク)

庄内空港は稼働しているとわかり、鶴岡の祖母の家へさらに移動。
無事元同期を見送ることができた!
 ↓
ほっとしたのもつかの間、それまで来れる人は…と言ってた会社から、
通常通り出社との鬼指令がきて、実家でゆっくりもできず仙台に戻る
 ↓
通常の何倍かの時間をかけてひとり仙台へ戻る
ありがたいことにマンションの電気と水が復旧していた(オール電化)
たぶんこの日がブログを書いた3月17日。

…めっちゃ長くなってしまった(笑)
このくだりも昔ブログに書いた気がするけど、ブログ転々としててもう残ってないので(^^;

去年も書いたかもだけど、多分こうやって語ることが必要なんです。
読んでくれた方、ありがとうございます。
もっと語りたい気もするけど、また後日にします…(ガーナは深夜になってしまったので)