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「充実した人生」を送るには。なぜ人は人生に満足しないのか。

「充実した人生」というのは物質世界に生まれてきた以上、
誰しもが満たしたくて仕方のないものかと思います。

人が誰しも「充実したい」と思う、
つまりそう思うということは裏を返せば、
ひねりがなくとも「自分は今が充実していない」と言っているようなもの。

なるほど、確かにそうかもしれません。
私自身も「充実」していると思ってないし、
街の人たちを見ても「充実」しているようには見えません。

「充実」とは一体、どういうことなのでしょう。

「充実」とは程遠い現実

平日は仕事に追われてしまって、
週末に酒や旅行に明け暮れて、いかにも充実風を吹かせているが
いかんせん貯金が貯まらないので「充実」していない。

別に食うに困らない給料もらって「充実」しているけど
自分にはパートナーがいない、「恋人がいなくて孤独だ」
「充実していない」という。

かといって結婚して子供もいる
あたかも「無難」「勝ち組」のようなサラリーマンが
ワーカホリックになって家に帰ってこない
家事を手伝わない旦那のように

仮にパートナーがいてもそこでいざこざが起こると、
関係性のもつれで不満が起きる。

これも「充実とは程遠い」という。

会社でも高い地位にいて年収も高い、仕事もオフも充実しているのに
ふと一人に帰ってみると「趣味がない」とか
どうしようもない寂しさが立ち込める。

誰にしてもなんらかの部分は充実している、満たされているが
ある一方が足りないとそこに不平不満が募る。

あれもこれも足りぬと言って追いかけて、いざ手に入れるも
手に入れても手に入れても「まだ足りぬ」と言う。

じゃあどうしたらいいの?って話にだんだんなってくる。

「充実」させるにはどうするか

友達恋人であったりお金
道楽であったり物理的な物をひとしきり揃えてみるが
それでも充実に至らないのでは、

物理的なもので満たすのは難しいというのを感じさせます。

どうすれば充実を得られるか?と言われると、
「見える世界」のレベルでどうにかなるの?

というお話にはなってきます。

安心感を得るためには、例えば週末に酒を飲むとか、
土日祝日に旅行するだとか。
たくさん友達がいればそれはそれで安心かもしれませんね。

「恋人がいない」というステータスは生き恥でしかないから
手段はなんでもいいから恋人を作れればひとまずは安心だ。

こういう要素があれば、人生において鬱屈した部分がない、
つまり「充実」しているとも言われるのでしょう。

物理的に安心材料を整えれば「安心感」というものは得られるのでしょう。

それが安心感に繋がるかって言えばそうでもない、ということでしょうが。

ここで「充実」している感覚に満たされないということは
自分の人生のゴールに向かっていっておらず、
脇道にずれてしまっているということでないでしょうか。

「何か」を手に入れることで
自分の人生のゴールに到達した感じになる。
しかしその「充実」は一瞬にして崩れ去る。

そこで思い立つのが、よく言われる「本来の自分」
というものに立ち返る術を見つけて、そこに辿り着く、
というところに至るというところでしょうか。

何をすれば「充実」するのか。

例えば、昔諦めていた絵を描くことをスキマ時間に楽しんでやってみる、
歌やバレリーナが好きだったからその練習を土日にやる、

そういうものが高じて自分の仕事になりうる事例もありますね。

自分が何をすれば楽しい、夢中になってしまうのか、
それを思い出す時間が取れないのが昨今ですから、
なかなか「自分らしさ」が見つからないのも、無理もありません。

終わりに

人というのは何か一つ充実していると、
別の何かが足らない
と「充実していない」と呪詛を吐く。

それが他人から見たら「いやいやあなた充実してるでしょ」って言われたとしても。
そうなると「『充実』ってなんなのさ?」って話になる。

何をもって安心感を得るか、安心感となすか。
勢いのまま楽天的に生きれば安心感を得られるでしょう。

土日祝日にお酒飲んで旅行して楽しんでくれば
それも「安心感」と言えるでしょう。

何かに流されればあっという間にできる。

だけどそれは「産まれてきた目的」「使命」とは異なる。

安心感を求めることは手段ではあるかもしれないが、目的ではないのですから。

何をすれば「充実」するかというのは外を探して見つかるわけでなく、
あくまで自分の胸の中にあるのだから。

その人の中にしかありませんし、学校や会社の誰も教えてくれません。


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