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行き詰まった時に「立ち止まること」の大切さ

「進むこと」と「立ち止まること」。
人生は主にこの両輪で動いており、その大半は
「進むこと」を義務付けられて、また進まねば進化成長しないし、

時間は進んでも、巻き戻せないのも事実です。

大体のケースでは「進むこと」が「善の選択」、
「立ち止まること」が現状維持、すなわち「悪の選択」という教わり方でないでしょうか。

しかし間違いに気づいてなお進んで取り返しのつかなくなることもあります。
行き過ぎた、間違いに気づいたのであれば
「立ち止まる」ことも大事です。

どうしても進めなくなる時はやってくる。だから「立ち止まる」のが大事

私も進むやり方と、進むことはとにかく言われましたが、
立ち止まることの大切さを教えてくれる人はごく限られた人でした。

あのブラック企業にいた時、
私に「立ち止まれ」とアドバイスしてくれたのは、
知り合いが500人いて、昔から知る仲だったコーチただ一人だけだったこと。

彼が言っていたことは至極真っ当で、「本物のチャンス」だったのだが、
当時は会社辞めて起業家になりたい一心でガンガンに突き進みたかったし

何より百何万と払ったコンサル費を無駄にしたくない思いもあって
「立ち止まれ」なんてのは余計なおせっかいでしかないと思っていました。

私がそんなふうに思っていたから、
実に多くの人が「立ち止まらない」ことをよしとしていた。
大半の人間が「立ち止まることは悪の選択」という立ち回り。

仕事ではいつだって成果を求められるし、
ガタガタなブラック企業のプロジェクトなんかなおさら
結果を求めてくる一方で、立ち止まるなんて全く許されません。

誰も私に「立ち止まれ」なんていう人間はいなかった。

起業活動が失敗してもとにかく動き続けていたが、
祖母の訃報を聞いて、悲しみに暮れた時、
とてもじゃないが、仕事も、頑張ってた起業活動も、
何もかも進める気になれなかった。

それでも仕事は辞めることはできなかった。

ようやくコーチに「立ち止まれ」と言われた、言葉の意味がわかった気がした。

「立ち止まること」は「悪の選択」なのか

その半月後に私は起業塾の先輩に呼び出され、
起業で成果物をまったく出してないことを咎められた。

普段の業務で時間を食われ起業に力を割けなかったのと、
祖母の訃報後は起業塾の作業に手もつかなかったから。

本心を言えば、忙しいことを理由に気乗りせず、起業に力を割かなかったと言った方が良いかもしれない。

先輩から「『立ち止まらない』と約束できるか?」と言われたのは今でも覚えています。
当時はまだ起業で成功したい意志もあったし、
「立ち止まる」意志よりも「進む」意志を明確にしていて、そう答えていた。

ただその時初めて気づいた。
本当に自分のためになるアドバイスをくれる人間は
実は自分の周りに誰一人としていない、という厳しい事実に。

祖母の訃報で傷心状態なところで一体何ができるというのか。

傷を癒すために、周りの人間から距離を置きたいと考えるようになりました。

「立ち止まる」ことで何が善で何が悪かを見極めること

「ちょっと違うな」とか「気が進まない」と感じた時にやるべきなのは
進むことよりも、立ち止まること。

進む進まないの良し悪しよりも、一旦立ち止まって
何が「善の選択」で何が「悪の選択」かを見極めること。

立ち止まって、振り返って、足元を見つめ直す。
傷がついたならそこで癒えるまでじっとしているでもいい。

どんなことがあっても、とにかく「進む」よりも
実は「立ち止まる」方が、本当は勇気のあることかもしれません。

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