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夏の鴨


この公園の中央には、円形に広がる大きな池があり、その周りには12、3ほどのベンチが配されている。昨今のベンチは、真ん中に仕切りがあって、寝転がるような使い方はできない。即ちベンチ一つの定員は2名となるから、私のような独り者が座ると、1人分余らせてしまう事になる。だが、私も好きで独りになったわけではない。大きな溜息を吐きながら、私はそのベンチへ身を放り投げるようにして腰掛けた。

世の中の独り者は、恋人との別れをどのようにして乗り越えているのだろうか。私が今日経験した別れは、人生で初めてと言えるほど大きな別れだった。彼とは幼少期の頃からの知り合いだったし、付き合う事が決まってすぐに、結婚のイメージが明確にできたほど、二人の相性は良かった。それだけに、この別れは堪えた。

彼は夢を追って海外移住する事を決めたのだが、私は彼に添い遂げてその夢を支える人生を選ぶか、彼を諦めて自分本位の人生を一から作り直すかの、二択を迫られた。自分本位の…とは言ったが、家族や友人の事を軽視できないという部分も大きい。彼は確かに私の中の多くを占めていたが、その他全ての時間を諦められる程の存在ではなかったのだ。結果、私は彼と共に歩む人生を諦め、一人日本に残った。

しばらくは、この決断を後悔し続ける事になるだろう。憎たらしいほど青い夏の空へ、彼が一人で消えていったのは、ほんの一時間前の事なのだから。

ベンチに腰掛けた私の視線は、まっすぐと前の池を直視しながら、それでいてどこにも焦点は合っていなかった。さぞかし話しかけずらいオーラを醸していた事だろうと、自分でも思う。だからこそ、そんな私へ近づいて来て、話しかけようとする人物がいるなんて、思いもよらなかった。

歳は60代の半ばくらいだろうか、白髪混じりの女性が躊躇なく私のそばまで来て、徐ろに口を開いた。

「隣に座ってもいいかい?ベンチが全然空いてなくてねぇ…」

私は驚いて我に返ったが、申し出を断る理由もなく、即座に了承した。正直に言うと、隣に誰がいようと関係ない。それが彼でないのなら、誰がそこにいても一緒だからだ。

彼女は単純に、ベンチに腰掛けたかったのだろう。だが、この公園はデートスポットになっており、二人掛けのベンチは恋人達の貸し切り状態になっていた。私の隣に辛うじて残った空席へ、彼女は止むなく腰掛けたのだ。

しばらくは、私も彼女も無言だった。お互いに眼前の池を眺め、それぞれの物思いに耽っていた。彼女はどうか分からないが、私にとってそれは決して不快な時間ではなかった。ただ、ここまで距離が近いとなると、流石に話しかけた方が良いかと思い始めた。だが、今の私に取り留めもない話題など、見つけられるはずもない。そこで、見ず知らずの相手ではあるが、この女性に別れ話の愚痴をこぼしてみることにしたのだった。

私が話し始めると、彼女は殊の外、真剣に話を聞いてくれた。私が彼との経緯を一通り話し終えると、彼女は徐ろに池の中央を指さして言った。


「あそこに鴨が浮いているだろう?あれは本来、春に仲間と一緒に北国へ帰るはずだった渡り鳥なんだよ。怪我でもしたのか、栄養が足りなかったのか、真相は分からないけどね。まあ、どんな生き物にも行かない理由、行けない理由というものが、それぞれあるんだろうね。」

言われてみると、確かに池には鴨が浮いている。私の視線はこの池へと向いていたのに、この鴨には焦点が合っていなかったのだ。だから、そこに鴨がいたのは細やかな驚きではあった。しかしもっと驚いたのは、彼女がたった今私の別れ話を聞いたばかりなのに、眼前の光景からそれに近いものを選び取り、達観したような口ぶりで優しく諭すように語った事だった。

私は少しだけ気持ちが軽くなった。

「ああ、私と同じですね。あの鴨も多分、行きたかったのに、行けなかったんだ。」

私は気持ちのままに、そう返した。
そして、勢いに任せてこう続けた。

「青空がこんなに憎く感じた事は、初めてです。」

すると、彼女は間髪入れずにこう返してきた。

「あの鴨が仲間を見送った日の空も、きっと青かっただろうね。」

私はハッとした。飛行機であれ鴨であれ、旅立ちの日は好天の方が望ましい。当然と言えば当然の事だが、改めて言われると説得力がある。

「なるほど。渡りは危険を伴う行動だから、好天の日を選んで出発するんですね。」

「まあ、それもあるんだろうけど…。」

彼女はそう言うと、続けて持論を展開した。

「単純に、雨の別れは悲しすぎる。少しでも、その別れを肯定したいじゃないか。別れとは言え、正しいものであって欲しいんだ。あの鴨は、残されたのではなく、自らの意思で残った。去っていく決断をした仲間にも、残る決断をした自分にも、等しく未来は開かれる。晴れていれば、そう信じられるんだよ。」

不思議なほど、彼女の言葉は私の心の芯に刺さってくる。

「そうですね…。確かに。」

彼女は私に向かって頷くと、さらに続けた。

「それに晴れてる方が、涙は早く乾くんだ。あんたも、たくさん泣いただろう?まあ、言わなくても分かるよ。別れに涙は付き物だからね。空の上で泣いた男の涙も、きっともう乾いてる。」

またしても核心を突かれ、私は縮こまりながらも応えた。

「はい、お恥ずかしながら、、」

すると、彼女はゆっくりと、そしてしっかりとした口調で、こう話した。

「涙は意思を以て溢れ、意思を以て乾く。
私はそう思ってるんだよ。」

この一言は、何やら格言めいていて、私はまるで何かの啓発本を一冊読み終えたかのような心地がしていた。

そして、いつの間にか全力で励まされている事に気づいた私は、思わず口を開いた。

「もしかして、私を励ます為に隣に座ってくれたんですか?」

すると彼女は小さく笑ってから、こう話した。

「実は、私は俳句が趣味でね。今度の句会に出す句を詠みに来たんだよ。流石に立ちっぱなしはキツいから、ここに座らせてもらっただけさ。」

「ああ…、そうだったんですね。」

そう返した私の顔は、笑っていたと思う。
なんだか、救われた気がしたのだ。

「俳句は面白い。楽しい時も辛い時も、ずっと一緒なんだよ。」

「やめたくても、やめられないんですね。」

彼女はやめたいなんて言っていないのに、私はそう言ってしまい、一瞬、言葉選びを誤ったかと思った。しかし、彼女は笑顔のままでこう話してくれた。

「そうそう。やめたいって思う事があっても、やっぱりやめられない。だって、認めて欲しいからね。なかなか褒めてくれないあの人に、褒めてもらえるまで続けるって決めたんだから…」

「あの人って…」

私がそれを言い終えるより早く、彼女が満面の笑みでこう言った。

「おかげで一句詠めたよ。ありがとう。」

彼女はそう言うと、身体は池へ向けたままで、ゆっくりと空を仰いだ。そしてそのまま、天へ向かってその句を読み上げた。


『夏の鴨みづは青天へと還る』

明美



そこには、見たこともないくらい、どこまでも青い天があった。


私は悟った。

これは、数えきれない程の涙が、
意思を以て乾いた青さなのだと。



【夏の鴨】 完

企画、本文、俳句、表題画像 … 恵勇
俳句出典 … 南海放送ラジオ
夏井いつきの一句一遊、5月8日放送回より


バードハイカー3号の旅立ちに際して
この物語を捧げます。

俳並連鳥支部部長 恵勇

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