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2020/7/31の星の声

また会うときに


わたしたちは、みんなで手をつないで歩いてた。
離れ離れにならないように、いつでも仲良しでいられるように。

いつだったか、富士山に登ったときのことを思い出した。
夜の11時に八合目の山小屋を出て、ゆっくりと山頂に向かって歩いたら、
まるで、満天の星空に向かって進んでいるようだった。

わたしたちは今、そんなふうなのかもしれない。

道は決して平坦じゃない。険しいことだって何度もある。
でも、わたしたちは手をつないでいるから大丈夫。
みんな一緒だから、怖いことなんてひとつもなかった。
ほんとは、ちょっと怖いときもあったけど、みんながいるから平気だった。

くたびれて足取りが重くなることもある。
弱音を吐いて、投げ出したくなることだってある。

でも、わたしたちは一緒に歩き続けた。
うつくしい世界を夢見て。

その道が、果たして人生の何合目にあたるかなんてわからないけれど、
わたしたちは、とある看板を目にした。

「2020」と書いてある。

その数字に見覚えがないと言ったらウソになる。
わたしたちの誰もが知っていた。
知識や経験なんかじゃなくて、心の奥の方まで覗き込んだときに、
その数字をきっかけに、何かが始まり、終わることを。

わたしたちは看板を前に立ち止まった。
誰かが言った。

「このままでいいのかな?」

また別の誰かが言った。

「いいんじゃない? 楽しければ」

するとまた、別の誰かが言った。

「わたしはそうは思わないわ」

今度はわたしの左手をつないでいる人が言った。

「そんなことよりさ、そろそろお腹が減ったよ」

そうしたら、わたしの右手を握る人が答えた。

「わしはそろそろ眠りたい」

わたしはどうしたいんだろうと感じていると、
ずいぶん遠い方から声が聞こえてきた。

「いい加減、目を覚ましなよ!」

わたしたちはみな手をつなぎながら、ずいぶん賑やかになった。
口ゲンカをしている人もいれば、愛を誓い合う人もいて、
何もかもがめちゃくちゃなように思えた。

わたしはどうしたいんだろう。

そのうちに、わたしから何人か離れたところにいる人が、
わたしたちから手を離して、看板の向こう側へ歩いて行った。

「どこに行くの!?」

その背中に向かって、誰かが声をかけた。
看板の向こう側へ行った人はこう答えた。

「わたしは、これまで通りがいいって決めたの」

それを聞いた何人かが、大きく声を張り上げた。

「いいぞ、その調子だ!」

「これまで通りなんて、やめたほうがいいよ!!」

「ぼくも、そうしようかなあ」

「せっかくのチャンスなのに!!!」

わたしたちの声は、てんでバラバラだった。
わたしはどうしたいんだろう。

いつしか、たくさんの人がつないでいた手を離して、
めいめい言いたいことを言いながら、看板の向こう側へ歩いて行った。

そこには、何千何万何億通りもの道が伸びていて、
みな、それぞれの道に向かって歩みを進め始めた。

ひとり、またひとりとその場を離れる中、
看板の向こう側によく目を凝らすと、
無数の道の分岐点の入り口にあたるところに誰かがいるのが見えた。

分岐点に立つ人は、それぞれの道へ進むすべての人々に対して、
何やら声がけをしながら、ポンと背中を押していた。

その様子を見ていたら、
わたしの両隣にいた人が、わたしの手を離して、
なんとかかんとか言いながら看板の向こう側へ向かった。

看板の前には、わたしのようにポツンと取り残された人たちが、あちこちに散らばっていた。

その人たちと手をつなごうとしても、どうしてか遠すぎて手が届かない。

わたしは、急に不安になった。
これまで一緒にいた人たちが急にいなくなって、ひとりになったら、
どうしていいか、さっぱりわからなくなってしまった。

時間が経つにつれて、看板の前に残る人は少なくなった。

わたしは、どうしたら自分が不安にならないかを考えた。
安直だけど、不安とは逆のことを考えるようにしてみた。

わたしは、お花が好き。手作りのお菓子も好き。
音楽が好き。特にピアノの音色が好き。
自然も好きだけど、街も好き。だけど、人混みは好きじゃない。
お酒はあまり飲まないけれど、ハーブティーはとっても好き。

わたしは、読書の時間や、お料理の時間が楽しい。
誰かとカフェでおしゃべりする時間も楽しい。
家でじっとしていることも楽しいけれど、
車や電車で、どこかに出かけるのも楽しい。

わたしは、目をつむってあれこれ考えていた。
気がつくと、先ほどまで看板の向こう側の分岐点にいた人が、
わたしのそばまで来たようで、急に声をかけられた。

「どちらにお進みになりますか?」

目を開くと、わたしはいつの間にか、看板の向こう側にいた。
ここまで歩いて来た記憶はない。
むしろ、わたしは目をつむって立ち止まっていたはず。

「どちらにお進みになりますか?」

もう一度、そう声をかけられた。
どちらと言われても、わたしには答えられたかった。
目の前に無数に伸びる道は、一本道、くねくね道、ケモノ道、光の道、とあったけれど、どれもわたしが一歩を踏み出したい道ではなかった。

しかたなく、わたしは先ほど考えた、好きなこと、楽しいことを、伝えることにした。何度かうなずきながら、分岐点に立つ人はこう答えた。

「では、この道はいかがでしょう?」

その声とともに、わたしの目の前に、あたらしい道がふわっと浮き上がり、遥か彼方に向かって、すっと伸びて行った。なめらかな流れを見つめていると、わたしの足はひとりでに、一歩前に出た。

分岐点に立つ人はにっこりと笑って、わたしの背中をポンと押した。

「いってらっしゃいませ」

わたしは空港などにある動く歩道に乗っているかのように、あたらしい道をするすると進み始めた。周りを見渡すと、誰もが同じような進み方をしていた。

誰一人として道が重なることはなく、みなそれぞれの道を進んでいた。中には、不安そうな顔をしている人や、他の人の道を気にしてよそ見している人もいたが、しばらくすると、背後から分岐点に立つ人の声が響いた。

「行き着く最果ては、みなさん同じ場所ですからね! 周りを気にして、決してその道を外れることのないように、ご注意ください!!」

その声に、安堵の吐息が聞こえたり、なあんだと表情を明るくする人が何人か見えたりした。そこに、わたしの左手と右手をつないでいた人もいた。

これまで、手をつないで一緒に生きてきたわたしたちは、今度は、手を離して、それぞれの道から同じ目的地に向かって、生きていくことになった。

看板を越えてから始まった、あたらしい道のりの先で、みんなとまた会うときに、わたしはどのような顔をしているのだろうか。

そんなことを考えていると、わたしの中には不安や心配などの気持ちはもうなくなっていることがわかった。むしろ、このあたらしい道で味わう、好きなことや楽しいことが、想像をはるかに越えたものになる気がしてならなくて、心が弾んでしかたなかった。




耳をそば立てる星たち




こんにちは。こじょうゆうやです。

西の方から少しずつ長い梅雨が明け始めていますね。
今日はそのおかげか、信州佐久もピカピカに晴れております。

さてなんと、今週の星の声も、無言! でございました。

地球を含めた太陽系、天の川銀河、他銀河、どの星も一様に、だんまりしています。先週のキンボでは、その無言を「祈り」と表現しましたが、今回の無言は「耳をそば立てている」状態のようです。

何に耳をそば立てているのかと言うと、彼らが聴こうとしているのは、地球上に生きるぼくたち人類、個々の声、響きです。
前章の『また会うときに』は、今日感じた星たちの様子から見えた光景を書きました。今まさに、ぼくたちは「2020」と刻まれた看板の前にいるんです。

その看板の前では、ありとあらゆる選択をすることができるようです。地球を含めた全宇宙の星々が、ぼくたちのほんとうの声をもとにした選択、決定を注視しています。その視線は信じられないほどの細部にまで行き届いています。

ここでぼくが思い出したのは、『2020/3/27の星の声』でお伝えした、アレです。


てってれーーーーーーーーーーーー⭐️(効果音)


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そう、多次元選択における、「それぞれの」ミラクルジャックポット(奇跡の大当たり!)を実現するための時が訪れたようです。

前章の中で書いた、「2020」看板の向こう側の分岐は、それぞれにとってのミラクルジャックポットを選択、決定した際に浮かび上がる、あたらしい道なのかもしれません。

またその道は、自分ひとりのためだけの、特別な道で、他者がその道を歩むことは基本的にできないそうです。基本的に、とお伝えしたのは、相当に無理をすれば歩けるそうなのですが、その無理の先には、地球との不一致がどうしても起こってしまいます。そうなると、この星で生きていくことが難しくなる、のかもしれません。

とはいえ、そうならないように、ぼくたちに最大限に協力してくれるのが、死神という存在です。でも、怖がらないでくださいね。死神は、とってもいい人たちです。

彼らはフード付きのローブを着て、切れ味鋭い大鎌を片手に、生と死の「境目」に存在しています。そのあまりにも異様な出で立ち、ほとばしるオーラは、出くわせば大抵の場合は気が付くはずです。

「うわっ、引き返さなきゃ!」という風に。

彼らはむやみやたらに、大鎌を振り下ろしたりはしません。よほどのことがあったときに初めて、音もなく振るうようです。そのよほどのこと、というのは、

ここからその人らしい「生」に引き返すことはもう不可能だ、
と死神が判断したときのようです。

それまでは、その人を生かすために、その人らしい「生」に引き返すように、独特の存在感や死の香りを漂わせて、死神はただただ境目でじっとしています。

とはいえ、すべての死が死神と関係あるかと言われると、そうではないとぼくは感じています。若かろうが老いていようが天寿をまっとうする形では、死神は現れません。その際、お迎えに現れるのは、天使たちを含めた、その人の関係者(御先祖さんなど守護を担う方々)のようです。

死神の話をすると、怖がられたり、目を背けられたり、嫌われたりしそうですが(死神もろとも、ぼくも笑)、

そういった場合、たいてい死神は深く被ったフードの中で、「嫌わないでください」と一筋の涙を流しております。彼らは、それ以上の苦しみや悲しみを与えないように、死を与えるというその役割を忠実に遂行しているだけですから、もちろん怖いとは思いますが、忌み嫌わないでくださいね。ヴィジュアルとお役目が違うだけで、彼らも天使とほとんど変わりません。

そういえばこの間、畑で仕事をしているときに、キリストとムハンマドと死神が仲良く晩酌している様子が見えましたが、あちらの世界なんてそんなものだと思います。


話はそれましたが、ぼくたちは今、「2020」看板の前にいます。

その数字を見て、何かを思い出そうとして、立ち止まっているのかもしれません。世界はわかりやすい形で、大変革のタイミングを迎えています。

何かを引き合いに出して比較することはできませんが、世界中の人々の精神、肉体、霊性に、大きな大きな作用を起こすのが「2020」なのかもしれません。それがオリンピックではなかった、ということは、ぼく自身よくわかりました。

前章で言い表した内容で、気をつけていただきたいことのひとつとしては、

「みんなで一緒にずっと手をつないで」が悪い!
などとは、一言も言っていませんからね。(ジャッジメントご用心タイム)

今までは「みんなで一緒にずっと手をつないで」だったのが、よりおおらかな雰囲気とともに移ろいそうな気配があります。

これからは、手を離して、個々がそれぞれの道から同じ目的地に向かって、同じ世界を一緒に、生きていくことになりそうです。ときには、誰かと手をつなぐこともあると思いますが、おそらくそれは限られた期間のように感じます。

星たちが耳をそば立てているのは、長く見て今年の冬までにかけてだと思われますが、梅雨が明け、太陽の光と熱がまんべんなくぼくたちに届くこの夏の間は、ぼくたちがどのような生き方をするか、どれだけほんとうの声を発することができるか、特に大切なようです。

星たちは、ぼくたちの声を、待っています。




役柄の転換期




ひとりひとりの魂は、地球の成長に貢献するために、自らの人生のシナリオを自ら描いて、それを魂のなかよしさんと見せ合いっこしてから生まれて来ていると、ぼくは感じています。

参考までに →   おはなし会でおはなししたこと(魂のシナリオ編)


ぼくたちの魂のシナリオは、「地球の成長に貢献する」ことを第一に練られていると思いますが、その際は、地球上における役柄みたいなものも、魂のなかよしさんたちと一緒に決めてきているようなイメージがあります。

ただ、それはあくまでも、「地球の成長に貢献する」までの間のものです。

個人的な見解では、昨年夏ごろに、その成長が目的のエリアまで、てってれーーーーーーという効果音とともに達した感覚があります。

参考までに →  おはなし会でおはなししたこと(地球編)


そうなると、ぼくたちが担ってきた役柄も、ある意味終わったような気がしているんです。すっごく目立ちたがり屋の性質を持つ魂が、いくつもの魂たちとのシナリオの関係上、控えめな縁の下の力持ち的役割を任されている場合も、わりと多く見受けられます。

春先に始めたキンボの中で、星々からせつせつと、
「魂の本質に戻りましょう」という声があったのも、まさに、この時のためのようです。

魂の本質と言われたところで、どれが、何が、自分の魂の本質かわからないかもしれません。ぼく自身、自分の魂の本質がどんなだか、正直掴みきれておりませんが、だいたいは、良かれ悪かれその人の性格、性質がヒントになるように思います。

日々の暮らしの中で、自己探求や研究に熱を入れていただくと、自分自身のクセや思考行動パターン、思想信条などがわかってくるでしょうから、それを魂の本質を読み解くものとして感じていただいてよいかもしれません。

魂の本質は、特に生活の中にあらわれやすいと思います。意識が行き届いていないところにこそ、隠れているものが見えてくるはずです。また感情が大きく動くときも、見出しやすいように感じます。自分自身に意識を向けている状態さえあれば、はたと気が付けるのではないでしょうか。

ぼくたちの魂はどのように活動したがっているのか。

その意識がわずかでもあれば、自分自身の魂の声を聴き取ることができるはずです。

そこから感じとって、
果たして今現在の自分自身の役柄は、魂の本質と一致しているのか?

今一度、感じ直してみるといい機会なのかもしれません◯




あれ、聞こえて来たぞ?




「星たちは無言でした!」とここまで書いておいて、今更ながら、わずかに声が聴こえてきました。今週のキンボはこんな感じかあ、と一度さらっと見直していたところでしたから、ちょっと気を抜いておりました。さっそく「耳をそば立てかえして」みます。


「進行状況はどうですか?」

「問題ありません。依然として、順調な推移です」

「それにしても、見事に散らばりましたね」

「この星のバランス感覚は、わたしたちの銀河でも類を見ません」


おや、星じゃない、ようです。何か乗り物の中?の光景が見えてきました。何人かで会話しているようですが、思うように特定できないため、聴こえてくるものをそのまま羅列していきます。


「わたしたちの星系含めて、これだけ多くの種が宿っているはずなのに」

「いやあ、たまげたもんですな」

「ところで、月の人々はどうなっていますか?」

「数日後に、50万人ほど地球に向かうようです」

「50万! それは多いな」

「彼らはどのような役割なんだい?」

「世界全体に分かれて、人命救出を第一とする動きをするそうです」

「大きな災害が起こるわけではないでしょう?」

「そのようです」

「太陽系の星々の影響が色濃く出ているのはどこだ?」

「南極、と出ています」

「南極は土星の担当だったな。やはり影響力が強い」

「地球の現在の状態はどうですか?」

「世界各地で龍の解放が見られるためか、とても安定しています」

「特に日本は、数が多いようですね」

「数が多いどころか、それぞれの個体もまた巨大なエネルギーです」

「地球の排毒による被害は最小限になりそうだな」

「むしろ気をつけなければならないのは、人災のように思えます」

「龍はそこまで対応できるのかい?」

「できる限りしているようです。不注意は対応できないようですが」

「そりゃそうだ。不注意なんて、愛でさえも対応できない」


さて。
ここまでの会話や、彼らのいる乗り物を感じておはなししますね。

彼らは今、地球にいます。もっというと、雲の中にいるようです。宇宙船かしらと思ったんですが、SFチックな機器がほとんど見当たりませんで、どちらかというと雲の中で、雲のソファに腰掛けて、おしゃべりしているように感じます。雲という乗り物なんでしょうか。

おおよそ、地球外惑星の人々は、自由自在に行き来していますから、今更驚くことはひとつもないのですが、「観察者」である彼らの興味は、人類よりも、地球という生命体の方に強くあるようです。

「今の地球は、喜びや祝福に対する意識が強いことが特徴です」

「そうですか、それはほんとうに珍しいですね」

「たしかに。元々の性質で、その意識になっているわけじゃないし」

「そうなると、人類も同調しやすいのではないですか?」

「そうとも限らないようです」

「そうなんだあ。そこに波長が合えば一瞬で、高次を実感できるのにね」

「どんな人間でも、いっときの間なら、高次を感じているでしょう」

「どうして持続しないのでしょうか?」

「生命と輪廻に対する誤解が原因として、大きいようです」

「輪廻はまだしも、どうやったら生命を誤解するんだい?」

「自己の所有物と解釈しているケースが多いようです」

「ははあ。それまたずいぶんと勝手な解釈だな」

「今の世界を構築しているシステムが、大いに影響してそうですね」

「普段触れている、水や風なんかに、生命の響きを感じられないんだね」

「前にどこかの惑星で同じようなことがあった気がします」

「世界的な大災害を境に、人類の意識転換が起こったところでしょう?」

「状況としては地球も似ていますが、そうはならないと思います」

「どうしてだい?」

「地球の意思が強いから、もう同じことは繰り返さないはずです」

「そうか。それはどんな変革が起こるのか、見ものだな」

「地球の意思に同調した星々の意識が多く宿ったことも左右しそうですね」

「それこそ、喜びや祝福の意識が変革につながるのではないですか?」

「そうなると、ほんとうに素晴らしい光景に立ち会えますよ」




たっぷり、生きる




あちこちで、そろそろ宇宙人とコンタクトが始まるという話が出てますが、ぼくも個人的にはそう感じています。でも、たとえ高い次元の人々が訪れたとしても、関係性はフェアそのものですから、出会った時はより自分らしい自分でいることがいいのかもしれませんね。

さて、個人的に彼らの会話の中で貴重だなあと思えたのは、

「今の地球は、喜びや祝福に対する意識が強いことが特徴です」

と言うところです。


みなさま、数ヶ月前の自祝期間、いかがでしたでしょうか?
最近はあの頃よりもさらにさらに、自祝強化に適している気がしますよ。

自分にとってのほんとうの喜び、自分にとってのほんとうの祝福とは、果たしてどんなものでしょうか?

またそれに関係して、
生命というものを、今一度、感じ直してみる佳き頃合いかもしれません。

最近は生死に関して、印象的で、象徴的な出来事が多いですが、
死を思うことは、同時に、生を思うことでもあります。

どちらか一方でもいいと思います。
生、もしくは死を感じること、
お盆もありますし、この夏は特にいいかもしれません。

今日、連絡をとっていた友人がこんなことを言ってました。


「あまねく生物たちの
 ちいさくても
 ずっと鳴り続けている震えを
 しずかに、
 受け取りに行ってきます」


家の庭や田畑など、生き物が多い場所にいると、
ひっきりなしで起こる生と死のサイクルを感じることができます。
意識的に、空気を吸って吐くことも、きっと同じでしょう。

意識して、生と向き合うと、死の本質をつかむことにつながり、
ほんとうの喜びや、ほんとうの祝福も、それぞれの感じ方で捉えやすくなると思います。

ぼくたちが生きる現在は、とーーーっても幸運です。

意識の広がりの只中にいるぼくたちは、
たとえ、差し迫った脅威が身近にあるとしても、
今を喜び、今を祝い、今に生きることを楽しむことができますからね。

視点を、意識を、より宇宙規模に拡大拡張して、担ってきた魂の役柄を放り出して、主演俳優、女優として、人生を世界を、自由自在に創造していく大きな大きな機会です。
苦労や困難は、魂の遊び心の範疇として、お取り扱いくださるのがいいかもしれません。


それぞれのあたらしい道は、ぼくたちだけの道。

今まで以上に他者と深く密接につながって、
それぞれの魂の絆を思い出して、
誰にも何にもとらわれることのない大きな翼を広げて、
うつくしい世界を思いのままに、たっぷり生きること。

自他への敬意と感謝、てんこもりの愛を忘れずに、
別々の道を、それぞれのペースで歩みつつ、
最果ての地で、喜びいっぱいにお会いする、
いつかの時の訪れにつながる、
素晴らしい8月をお迎えくださいませ。





今週は、そんなキンボです。







こじょうゆうや

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