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能楽『翁』観劇 ー揺らぎの果てー


新年早々、東京銀座にある観世能楽堂で催された「観世会定期能」を観劇しました。目的は能にして能にあらずと言われている『翁』を観るためです。

昨年は歌舞伎に散々ハマりました。しかし次第に、歌舞伎よりも古くから脈々と受け継がれてきている能楽に対する興味が溢れ、特に能楽の中でも格別とされる『翁』に対する思いは日に日に募っていきました。そんな中、インターネットでたまたま見かけた情報で、新年三が日中に『翁』が観られるとわかり、ピンときた友人に声をかけ、人生初めての能体験をしに行きました。

能の演目は、歌舞伎のように「」という拍子木の合図で幕開きするわけではなく、信じられないくらいにぬるっと始まります。正直、この表現の仕方が適切かはわかりませんが、初めて観る人からするとあまりにもいきなり始まるから戸惑うかもしれません。それくらいぬるっと始まります。

能楽堂には「本舞台」へ向かう「橋掛かり」という通路があり、役者さんの多くはそこを使って入退場します。『翁』では、その橋掛かりを静かに、信じられないほどにゆっくりと役者さんたちが歩いて本舞台へ向かっていきます。今回、翁の役を演じたのは観世流宗主の観世清和さんです。予習として観世流の大元にあたる観阿弥の子、世阿弥の書いた『風姿花伝』を、観世清和さんがわかりやすく解釈したを熟読し当日を迎えました。

『翁』については、当日に三番三役を担った能楽師狂言方大藏流の大藏基誠さんが、Twitterで次のように呟いてくださっていました。



このハッシュタグ「エンタメとは違う」「式楽」が本当に肝なのでしょうね。実際に、歌舞伎観劇を経てから能楽を拝見した身としては、そのことを深く感じました。

『翁』はだいたい1時間ほどの演目です。能楽の詞章であるうたいや|地謡《じうたい》から発生する独特の揺らぎに加えて、ループする笛の音の揺らぎの中に、実に絶妙なタイミングで|小鼓《こつづみ》や|大鼓《おおつづみ》、太鼓の音が掛け声と共に入ります。その音は寄せては返す波のように、あちらの世界とこちらの世界を行き来して、能楽堂内に混沌さながらの時空間を形成していきます。普段現実に生きているぼくらからすると、完全にあちら側の世界に入り込んでしまうようなそんな状態です。

実際、普段目では捉えられないものが、様々見えたのが印象的でした。煙のようなもの、光の揺らぎ、種々雑多な名前のない神々、言うなれば八百万の神々がどんどん揃っていくような感覚でした(個人差はあります。ただ一緒に観劇した友人も同じようなものを目撃しました)。

その中で本舞台にいる翁にフォーカスすると、それはまさに神の顕現(はっきりと現れること)で、あの世とこの世を行き来する揺らぎの果て、そのさらに向こう側へ誘われる体感が生まれました。世界最古の芸能と呼ばれる能の演目の中でも、別格に位置する『翁』の真髄はおそらくそこにあるのではないかと思いました。


その揺らぎをさらに深めるのが舞です。翁や三番三は美しい衣装を纏って本舞台を舞います。ただその舞は、現代におけるダンスなどのように激しさを伴う派手な踊りではなく、まるで道端に咲く野花がそよ風に吹かれて柔らかく微笑むような動きで、目に見えてわかりやすい煌びやかさや華やかさはないのに、この上なく贅沢でおごそかで高い品格を纏っているのです。それもまたあちらの世界とこちらの世界の揺らぎを見事に表現しているように感じました。

そんな風に揺らぎに揺らいだ空間の中にいると、どういうわけか本舞台の主役であるシテに目を奪われていた視線の軸までもが、どんどん揺らいで、視点が曖昧になってきます。本舞台の全景を見渡す視点と、シテや演者の方々の演技を注視する視点が、まるでカメラのピントがあったりぼやけたりするようにして行ったり来たりを頻繁に繰り返します。そうこうしている内に意識を消失する、つまりはうたた寝をし始めてしまうのです。

個人的な感覚では、能楽は誰もがこちらの世界(うつし世)にいながらも、あちらの世界(黄泉)を体感するためのある種の装置みたいなものなのかもしれません。能楽は謡の意味が理解できなかったとしても最初から最後まで観たら、その演目がどういう演目なのかを体感的に理解することができます。脳の理解よりも、感性による理解で十分に楽しめる、と言えるでしょう。

そこで謡の言葉やその意味を理解すると、さらに理解が深まるに違いありません。役者の方々はきっと日常的な稽古を通じて身体、精神、加えて魂に至るまでその理解を行き届かせているに違いありません。至高の領域の表現、と言っても大袈裟ではないほど、あまりにも素晴らしい舞台でした。

そして、その舞台は個々の演者の完璧な表現から成り立っているわけではない、ということがさらに興味深いところでした。それは、現代における音楽、特にライブなどに行くと似たような感覚があると思います。演者の中でも特に、楽器を扱う方々は、都度都度出したい音が出せているわけではないと思います。ただし、それは失敗になるわけではなく、あくまでも全体の過程のうちのひとつで、細かな修正を加えて、最終的にその日の舞台を仕上げていく様子にものすごく心を打たれました。

ここまで好き勝手言語化していると、「こじょうくん、歌舞伎の感想よりもずいぶん饒舌だね」と感じられる方もいらっしゃるかもしれませんが、不思議と能楽の方が言語化に適しているんです。そのあたりのことは、どういうわけかはまだよくわかりません。

あともうひとつ、ぼくが個人的に感動したのは、後半にあった仕舞(しまい)です。仕舞は紋服袴もんぷくはかまの姿でシテの方が一曲の見せ場である独立した部分を地謡だけで舞うことを言うそうです。若手の能楽師で注目を集める観世清和さんのご子息、観世三郎太さんの仕舞も、若々しさに溢れて素晴らしかったのですが、より年配のシテ方が演じる仕舞の脱力感と柔らかさが一際目を引きました。中にはやっとのことでくぐり戸を出入りする方もいらっしゃいましたが、ひとたび舞を始めるとその姿は古木の美しい佇まいを思い起こさせ、その木には季節になるとしっかりと花が咲くような、そんな素晴らしさがありました。

ぼくたち日本人は、そんな舞台をわりと気軽に見ることができる幸運な環境にあります。能の演目は全国各地で見られますし、東京千駄ヶ谷には国立能楽堂もありますから、興味のある演目があれば、買い物ついでにひょいっと観に行くことさえできるんです。これでぼくは、能楽と歌舞伎をの両方に足を運ばなくてはならなくなりました(や、そんなこともないのですけど)。

普段、ぼくの言葉の表現を楽しんでくださっている方々には、特に能楽は本当にオススメです。エンタメ感満載の歌舞伎もまたオススメですが、個人の表現を追求なさっている方にとって、能楽鑑賞は自己の表現をさらに磨く上でピッタリな気がしています。ぼくは能楽が表す揺らぎの果てのような洗練された表現を、物語の執筆だけでなく田畑の営み、日常生活などに活かしていきたいです。

能楽との出会いでさらに人生が豊かになる気がします。2023年素晴らしい幕開けとなりました。伝統芸能に携わるすべての人に心からの感謝と愛を込めて。大感謝!!!




こじょうゆうや

あたたかいサポートのおかげで、のびのびと執筆できております。 よりよい作品を通して、御礼をさせていただきますね。 心からの感謝と愛をぎゅうぎゅう詰めにこめて。