見出し画像

問1 テーマ「混在」

【一旦無視していいです。】

 今日二本目の文章になる。noteを再び始めようと思った理由の一つに、Twitterの文字数制限では言葉足らずになるからということである。僕の独り言は長いみたいなので、どうせインプレを稼げないであれば、誰にも知られないこのnoteでもいいわけだと思った。そのためすぐにアカウントを作り、赴くままに文章を書いている。こうして今2本目を書いている。しかしながら、Twitterの課金ユーザになればいいという意見が万が一にも上がれば、それはその通りであると思うのでほんの少しだけ弁解させてもらおうと思う。 

 (以下弁解としては)サブスクの費用を抑えたかったのと、いざ今までできなずにあきらめていたことが金銭が発生するにしても可能になったということによって書きたてられた衝動からくるものであるとして、ご理解いただきたいと思う。まあ、理解を求めたところでビュアーなんておらず、これ以上書いても意味がないので、またいずれTwitter(SNS)について言及できるようになったら書こうと思う。

【以下本題】

 話は変わって、文章を書く練習でもしようかと思う。テーマは「混在」としたいと思う。
 
 私は物心ついたころから相撲が好きだ。その成り行きに関しては割愛するが、今回のテーマに照らし合わせるのなら、相撲には伝統儀式という側面とスポーツという側面がある。例えば制度や土俵入りであったり、弓取り式、制限時間内に行われる所作、服装、髪型そして稽古に至るまで、あらゆる面に伝統が付きまとっている。私の記憶が正しければ横綱には伝統を守る義務があるし、少し前にある力士が立ち合いまでに多くの時間を要したことで苦言が呈されたこともあり、それほどに伝統の中で彼らは生きていると考えられる。
 
 一方で、相撲というものはスポーツとしても認知されているし、力士を強くさせるためにあらゆる科学を用いたり、他のスポーツと同様にトレーニングの設備を整えたり、伝統的な四股やすり足に加えてその稽古の内容のバリエーションは昨今より多様になり、そういう意味では競技スポーツとしての相撲という側面を持ち合わせているのは事実である。また、力士を取り巻く環境では相撲部屋の設備投資はいたるところで行われ、弟子を取り合うがごとくまるでの様相を呈しているように思われるほどだ。

 そこで、取り上げたいトピックとしては、「八百長」である。ほんの直近まで私は八百長即ち悪という認識をしていたが、その是非はともかくとして元貴闘力関のYouTubeを視聴したことで、八百長に対するイメージに変化があった。

 呼称を正確に使い分けることが困難なので、ここではすべて八百長と表記するが、八百長という行為を整理すると、元来からの上下関係からくるような星の貸し借りともいわれる八百長や人情相撲と呼ばれる相手のためにあえて負ける八百長、第3者からの依頼による八百長などがあると考えられる。どれもほとんどの場合法的には取り締まりの対象になるわけではないというが、表に出れば批判の対象となることからは逃れられない。

 さて、ここでは八百長の是非について述べているわけではないので、相撲界における混在がもたらす問題の記述で締めようと思う。

 まず、上下関係を重んじた星の貸し借りや人情相撲は、相撲の伝統に反する行為ではないと考えている。相撲における心技体をこういう場面で用いることが適切かは判断しかねるが、この心という部分において相手への人情からくる故意敗退行為に関しては、伝統儀式的な相撲の側面でいえば非難する必要はないだろう。(もちろんそこにお金が絡んだり、暴力やその他の非人情的な行為があるならば別ともいえると考えられる。)

 ただ一方で、社会での認識は今ではスポーツとして相撲をとらえることが多いのも周知の事実である。力士の真剣勝負見たさにチケットを購入する客がいて、彼らの真剣勝負に対する信用から贔屓の力士を作り応援するファンがいる。その構図はプロレスのある種キャラクター的なものではなく、一人のアスリートとして応援しているのであると考える。(もちろん中には、そのキャラクターに惹かれて大金を使てでも星を伸ばそうとする者もいるだろうが。)となれば、スポーツくじの有無にかかわらず、八百長が厳しく取り締まれる(角界もそうであるのかもしれないが)サッカーや野球、そのほかのスポーツと同様に情からくる故意敗退行為も含めて取り締まるべきであろう。

 この字数で結論を出すことはできないので最後に総括とするが、この混在は観戦者ひとりひとりに自分なりの解釈の余地を与えて、それに基づいてそれぞれの観戦者が楽しむことができているのは事実であると思う。ただ、明確な線引きをしないことは、今後進むべき道が明確でないことを示しいずれその狭間の、もしくはねじれの中で取り返しのつかない事態になる可能性もはらんでいるのではないかと考える。

最後に付け加えるならば、相撲部屋にも後援会というスポンサーがある。この点では各種プロスポーツチームと同様である。それではその出資者がどのように考えているか、それは相撲部屋ごとにではなく全体として意見を調整させようとする必要もあるのではないかと思う。(少なくとも他のスポーツではスポンサーはチームには広告の役割を期待されているし、そのために勝利を望んで出資しているということは事実であるからだ。)

1

 


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?