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スティル・ライフ

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凪をこえて

凪をこえて

 母との買い物のために外へ出た。もう日は暮れていて、街灯がちらちらと光っている。ひと月前であれば、この時間帯でも空は明るさを保っていたはずだ。夜風の涼しさに季節の変わり目を肌で感じ、今年ももうすぐ終わってしまうのかと、ちょっと寂しくなった。

 仄暗い道を、母と雑談しながら進んでいく中で、僕はふと文章を書きたいという気持ちに駆られた。これはここ最近の悩みの種だった。文章への意欲はあるのに、僕の生活

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小世界

小世界

 仕事がお休みの日は、つい昼寝に明け暮れてしまう。さまざまな夢を転々としているうちに夕方になっていて、空っぽの頭で食卓に向かう。家族と晩ご飯を済ませたあとで、今こうして文章を書いている。

 一週間のリズムは、どの週もほとんど似かよっていて、変わり映えがない。平日は朝から日暮れまで八時間まで働いて、休日は家でだらだら過ごしたり恋人と出かけたりする。先週の記憶はもう覚束ない。波のように時間は巻き戻り

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リバー

リバー

 朝からどこか優れないところがあった。

 別段、風邪っぽいとか仕事でやらかしたとか、そういう目立ったものがあるわけではない。だけど、確かな実感があった。シャツのボタンが一つずつ掛け違えているような、悲しいくらいのぎこちなさがあった。

 こちらに向かってくる人を避けたり、何気ない会話に適度な相槌をうったりするような、些細なやりとりでさえ難しく感じる。身体は重たくなり、口はかたく閉じられる。ふと窓

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季節の再読

季節の再読

 ある日の晩、顎ひげを剃っているときにふと、一着のサマージャケットのことを思い出した。それは、僕が大学生として一人暮らしを始めて間もない頃に、両親から送られてきたものだった。薄手の白い生地に、水色の細い線が縦縞に入っている。白状すると、若すぎた僕はそれを気に入らず、一度も袖を通すことすらなかった。そして大学を卒業して故郷に戻るタイミングで、僕は無情にも、それをビニル袋に詰めて捨ててしまった。

 

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 夜更けとともに、雨が降り始めた。車のフロントガラスにびっしりと並ぶ透明な粒が、スーパーマーケットの明かりを受けて、ときどき砂金のように輝きを放つ。僕は恋人の運転する車の助手席に腰かけ、雨音に耳を傾けていた。僕たちに行くあてはもうなかったけれど、かと言って解散を切り出す度胸もないまま、駐車場で時間だけが過ぎていった。雨の雫が、周りの雨粒を道連れにしながら、フロントガラスを真っすぐに滑り落ちていく。

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黄金

黄金

 「自分の機嫌は自分でとる」という言葉を聞くけれど、いまだに上手くできない。安易に憂鬱を引き連れたり、涙を受けとめてくれる掌を求めたりする。溢れ出す感情を隠せないときがある。そんな自分を責めて、ぬるい湯船の中で反省する。

 冬の寒さが厳しくなる頃、心身の調子を崩した。先に身体、それから心という順番。繁忙期でもないのになぜか仕事が慌ただしくて、家に帰ればすぐ布団に潜って朝までスキップした。働く日々

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悪いことは重なるなあ

 つらいことが続いている。僕の身には何も起こっていないけれど、それがまたつらい。初めて聞く地名の人、身の回りの人、自分以外の人々の苦しみに、僕ができることは何だろうか。

 インターネット上の知り合い(と言ってもその人の顔も本名も知らない)が、しばらく何の音沙汰もないので心配していたところ、亡くなったという報せが入ってきた。本当に突然のことだった。おそらく、まだ三十代。少し前にはライブに行っていた

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雑感のアソートメント

雑感のアソートメント

・「疲れているからこそ会いたい」。仕事終わりで身体は鈍っていたけれど、恋人をデートに誘った。これまで人付き合いというのをまともにしたことがなかったので、疲れたときには休むものだとずっと信じていた。しかし、ある日恋人に言われた言葉が忘れられなくて、自分も実行してみることにした。

 平日の夜、コメダ珈琲店はそれほど人がいなかった。隅っこの二人席に腰かける。お店に流れる、甘美な音楽のせいでまぶたが重い

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硝子窓

 仕事が終わり、黄昏れる道を自転車で走る。犬と散歩している人たちや、マクドナルドで談笑しながら勉強している生徒たちを横目で見やる。タイヤの空気が緩んでいるから、坂道を越えるのに苦労した。全身が強張った。それから、風に乗るようにゆっくりと駆け下りていく。

 いまの仕事に就いて何年も経つ。ありがたいことに、大きな役割も与えられている。この春からはより一層、肩にのしかかる荷が増えるだろう。求められるこ

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朝顔

朝顔

 大学生の頃、コーヒーを無糖で飲めるようになった。自分も大人になったのだと妙に誇らしかった。喫茶店で一人、ようわからん本を捲りながらコーヒーカップに唇を当てる。口の中に香りが広がる。ほろ苦いような、ほんのり酸っぱいような、難しい味を愉しんだ。でもそれはただ、僕の味覚が鈍ってきたからなんだろう。コーヒーを飲むことに慣れたせいで、本来の苦みをうまく感じられなくなってしまったんだろう。

 季節は流れて

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