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雑感のアソートメント

・「疲れているからこそ会いたい」。仕事終わりで身体は鈍っていたけれど、恋人をデートに誘った。これまで人付き合いというのをまともにしたことがなかったので、疲れたときには休むものだとずっと信じていた。しかし、ある日恋人に言われた言葉が忘れられなくて、自分も実行してみることにした。

 平日の夜、コメダ珈琲店はそれほど人がいなかった。隅っこの二人席に腰かける。お店に流れる、甘美な音楽のせいでまぶたが重い。一つのケーキを分け分けして食べ合い、苦いコーヒーを啜る。どんな内容だったのか思い出せないほど、くだらない話を鱈腹した。それから車内でも散々喋った。自然と頬が緩んで、目尻に皺が寄った。なんて不思議なんだろう。心がほぐれて、わずかに余裕がうまれるのを感じた。

 疲れているときには、人と会って話すのにも億劫になる。一人閉じこもって眠りを待つ方が気楽なように思える。だけど、そうではなくて、好きな人に声をかけてみる。冗談を思いついて、笑いをそっと差し出す。相手のつめたい掌に触れる。底の方に溜まった憂いで乾杯する。そういう仕草を覚えてみようと、このところ考えている。疲れているからこそ、会ってみよう。

・去年の12月に、長らく使っていたツイッターのアカウントを削除した。きっかけは特になくて、「なんとなく」という言葉が一番しっくりくる。

 ただ、理由を考えてみると、いくつかそれらしいものはあげられる。ツイッターをしている自分のことがあんまり好きじゃなかったこと。承認欲求に飢えて、情けない姿を晒すのがしんどくなった。タイムラインに浮上する人が以前に比べると少なくなったこと。学生から社会人に移ろうにつれて、自分だけの時間は減ってしまうものだし、仕方ないことなのかもしれない。

 僕が大学生の頃、身の回りで友達を作ることができなかった。一日中誰とも喋る機会がない日もあった。あの季節、僕はインターネットで知り合った人たちとの関わりで生きていた。遠くの町に住む、顔も知らない友達。彼らと定期的にする通話こそが、心細い日々の綱渡りにおいて、僕の足もとを照らす優しい明かりになった。いま振り返ってみたとき、彼らとの出会い、彼らと交わした言葉は、紛れもない僕の青春だった。その青春に、僕は別れを告げた。本当に、本当にありがとう。

 これからも、彼らとの関係が何かしらの形で続いていってほしいなと思う。もうあの頃のまぶしさはなくても、話の内容が仕事のことに終始しても、僕はまた出会いたい。いつの日か、インターネット老人会でもしましょう。ではまた。