こたえはドッチデモよかった
ふとね。考えたんよね。
両親のこと。家族のこと。
結論から言えば、ぼくは両親とか家族とかにこれでもかというほど最高に恵まれていたという話。
どんな両親だったかというのをご紹介。
とーちゃん:
割と物静かで真面目なんだけど、ノリがいい父親。昔某化学系工場会社員、ぶっ倒れてから半身不随。現役時代ビール3Lは飲んでた。
かーちゃん:
時には自己犠牲なほどおせっかい焼き、おおらかで人あたりのいい母親。地域密着型美容室経営。老人ホーム出張美容とかやってるらしい。すぐ何か物とかあげたがり。
とりあえず恵まれたなぁと思うことと、そうじゃないことがなんなんだろうか?って考えてみた。
恵まれたこと
・特に厳しくもなく穏やかな両親
・会社員の父と自営の母
・やりたいことに肯定的
・価値観を押し付け過ぎはしない
・人にやさしくを教えてもらった
恵まれてなかったこと
・うーーーーーーーーーーーん(思い当たらんかった)
恵まれなかったことがパッと思いつかない。
恵まれていないであろう部分はきっと反面教師としてよかったということなんだろうな。
例えば、
とーちゃん飲み過ぎて酔っぱらい、愚痴る
>ストレスため込まずに、たしなむ程度にしよう。
かーちゃんキャパオーバーなほどあげたがり、やりたがり
>やりすぎず適度な思いやりにとどめよう。(気質は継承してる気はする)
こんな感じ。
たぶんそんなに怒られなかったってのがよかった
過去を思い返してみて何をするにしても、ものすごい怒られたということが驚くほどになかった。「全くない」ということではなくて、理不尽な怒られ方をされた記憶がほぼない。怒られたことはすべて今後の不利益であろうこととか、まぁいろいろやらかしたことに対しての反省を促すような感じだったと思う。
覚えている範囲だと、なんかイタズラして物置に閉じ込められたとか、人の何かを壊しちゃったとか?最後に怒られたのは20才くらいで無茶して入院とかいろいろするハメになったヤツかな?あとは細々としたことに軽く注意される程度だったような気がする。
理不尽な怒られ方をされた記憶はやっぱり思い当たらない。
当時はどう思ったか?というのは、まぁ何か小さい頃なりの理不尽さはあるだろうなって気はするけど、今の時点で覚えてないからきっと上書きされて良い経験・教訓として捉えられているんだと思う。
ポイントとしては「怒られたこと」に対して考えさせるというプロセスが必ずあったような気がする。「なぜ怒られているのか」ここを毎回考えて、小さな頭で、小さく思考を積み重ねて「自分なりのこたえ」を出すということをやっていたような?
行動に対して止めるということがほぼない状態で、まずはやらせるというスタンスをとってくれていたのだということにしよう。
おかげさまで「やる」と決めたことに対して「行動する」ということをあまり躊躇しない感じに育ちましたありがとうございます。
だけどもう少しだけ怒ってもらいたいということもあった
安定を嫌うぼくの性格上ちらっと道を踏み外したくなる場合がある。それはそれはもう極端な感じで、わざと知った上で破滅に向かいたくなるようなヤツ。これは、ぼくの内包する承認欲求の一つで、見ていてほしかったとか、無関心でいてほしくないとかそういう反抗期に近いような感じなんだろうな。めんどくさいね。
そんなめんどくさい息子なんだけど、基本肯定してくれる両親なもんだから、どこまでが許容の範囲なのか?とかを知るために無茶をする。わざと怒られるようなことをしたくなる。ほんとただの反抗期の確信犯である。
何をするにもそこまで止めたりもせず、ちょっとした「気をつけなさいね」とか「しっかり自分で考えて」くらいの注意程度で済ませることがほとんどなものだから、自分で考えることにちょっとした疲れを感じたときなんかは、たまには止められてみたくなる衝動というのがあったんだよね。
高校を卒業して社会に出てからも、やはり無茶したりするから今思えばもう少しだけ怒ってくれてもよかったかな?という気がしないでもない。
なので両親には、
「これからもあなたたちの子供として迷惑とか心配かけるけど、何歳になろうと、いつまでたっても「あなたたちの子供」であることには変わりないので今後ともよろしくお願いしますてへぺろ☆」
と伝えている。
とーちゃんかーちゃんがとーちゃんかーちゃんでよかったよほんと。
そして自分も親になったから考えること
親としてこうでありたいというのはあるかもしれない。
だけど結局はそれって「自分の理想とする親像」ってだけで、子供にとっては関係のないことだと思うんだよね。人が考えてることは100%なんてわからんもん。
たとえ親子だとしても
「自分の理想は必ずしも、他人の理想ではない」
これに尽きると思う。
かといって適当に子育てをするということではなくて、良い親であろうとはしなくてもいいし、全部をやってあげなくてもいい。自分の両親がそうであったように完璧ではなくても、子供の判断でよかったと思える日が来ればそれでいい気がする。
自分の責任をどうとらえて、できることは何なのかを考えるだけ。
むしろ子供に嫌われているくらいでちょうどいいかもしれない。
ただ、子供が理解しようがしまいがどんな時でも、都度なにかしらの理由を伝えるということだけはやろうかなって思う。結局良し悪しだの正誤だのの判断は子供に委ねてどういう風に受け取るかは、今後生きていく中でのその子の経験とか考え方次第だし。
まだ文字も読めないわが子へ
今はわからんことだらけでもいい。できんことだらけでいい。
そのうちできるようになるから。
ただ「できる」は完璧じゃなくていい。やらないと決める前に知るところからだけでも始めるといいよ。その上で「できる」人に敬意を忘れないようにね。やってみてできなくても自分には寛容に。人には得手不得手というものがあるから。できない人がいてもそれは君と同じ「まだ」だとか「苦手」というだけだから寛容にね。
たくさん迷惑をかけて、同じようにたくさん迷惑をかけられなさいな。
一番身近な、ただ血がつながっているというだけの「親」っていう他人として、いつでもよき理解者ではありたいなと思うよ。だから遠慮はしなくてもいい。
君がいくつになろうとも、じーさんばーさんから見たぼくがそうだったように、いつまでたってもぼくは君の親でしかないからさ。
おわり
とーちゃんかーちゃんおかげさまで、ぼくは今こんな大人に成長しました。
受取ったモノを次の世代へどんな形でも引き継げればいいなぁって思います。これからも生涯にわたって心配と迷惑をかけていくだろうからよろしく!
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