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2020年版 発達障害とぼく


 思い返せば、ぼくのもっとも本質的な部分は、産まれてからほとんど変わっていないのだと思う。

 約4年前、仕事でのストレスをきっかけに、不眠、過食、体温調節の困難と積極的な希死念慮が出てきたため心療内科を受診したところ、様々な検査の末ADHD(注意欠陥多動性障害)の診断を受けた。ASD(自閉症スペクトラム障害)の要素もかなり強い、ということだった。

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 話すと長くなるが、乳幼児期、少年期、青年期の各発達段階で、社会不適合ぶりを遺憾なく発揮してきた。じっと座っていることはいまだに苦手だし、衝動的な言動で人を傷つけてしまうこともしばしば。興味の偏りもひどく、嫌いなことは集中力が5分と続かない。大学受験の願書提出日を「うっかり」忘れて、「30年の教員生活で初めて」とベテランの先生からお墨付きをいただいた。話始めると止まらないし、逆に無意識のうちに1日が終わっていた、ということもままある。

 両親や先生からはほぼ毎日怒られていたし、友だちは全くのゼロというわけではなかったけれど、同年代の中でかなり浮いた存在だったと思う。それなりに落ち込んだり、悲しんだり、泣いたりもしていたけれど、小学生の段階ですでに認知が大きくゆがんでいたか、というと、そうでもなかったような気がする。学校を面白いとは思わなかったけれど、不登校になるほど嫌だということもなかった。家で本や図鑑を読んでいる時間や、好きなアニメを見ている時間は素直に楽しかった。
 

 思い返すと、高校生くらいから、なにをやっても楽しくなくなったような気がする。それは、「自分」という視点から物事を考えることをやめてしまったからのように思う。中学の部活動で、良かれと思って主張したことがチームの和を乱し、仲間外れにされ、ついには親からも否定された経験から、「自分」という視点から自己主張することが出来なくなったのかもしれない。充実感というものとは無縁の、無味無臭、ただこなすだけの生活が続いた。積極的な希死念慮と呼べるほどのものはなかったが、人生があと60年以上続くと思うと途方もない絶望感に駆られた。「眠っている間に隕石が落ちてこないかな」と考えることがせめてもの慰みだった。積極的に死ぬ勇気も理由もなかったけれど、やむを得ない理由で死ねたらどれほど楽か、と思っていた。裏を返せば、死について自己決定する気力すらなかったのだと思う。

 就職活動の行き詰まりと履修のうっかりミスが重なって1年余分に在籍したり、急激な体重変動や不眠症に悩まされたりしながらも、学生時代は周囲に気にかけてくれる人がたくさんいたため、5年かけてなんとか卒業、就職することが出来た。気力も充実感も全くなかった時期がほとんどだったけれど、この間かかわってくれた人たちには本当に感謝している。

 その後、就職した会社では、うっかりミスを繰り返す、集中力が続かない、興味がないことがどうしても進まない、スケジュール管理ができない、などを短期間のうちに見せつけてしまい、半年ほどで「だめ新人」のレッテルを張られるようになる。ただ、ぼくはいたって真剣に仕事に取り組んでいるつもりだった。今になれば、ぼくの社会不適合具合は全く変わっておらず、「学校」という場ではかろうじて問題にならなかったことが、「職場」では大きな問題として見られるようになった、というだけの話だと分かる。しかし、当時のぼくは、自分のだめさ加減に大きく失望した。深く落ち込んでいるうえから浴びせられる叱責の数々。当時の先輩や上司をいまは恨んでいないし、組織の人間として無理からぬことだったのだと一定理解することも出来るのだけれど、当時のぼくのこころとからだを本格的に破壊するには十分だった。

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 診断名を告げられた瞬間は、これまでの生きづらさの原因が分かってホッとしていたような気がする。
 そのあとに出てきたのは怒りと悲しみでぐちゃぐちゃになった感情。特に、両親に対して。物事が楽しいと感じられなくなって以来、正直、「そもそも産まれてこなければ良かったのにな」と思うようになったが、そう思うこと自体両親に対してとてもひどい裏切りのような気がして、頭に浮かぶたびに振り払うようにしていた。ただ、生まれつきの脳機能の特性だと分かった以上、そう考えずにはいられなかった。普通が何かなんてさっぱりわからないけれど、「ふつう」に産んでほしかった。「ふつう」じゃなく産まれてきた以上は、出来ることは肯定してほしかった。生きづらさを軽くする術を一緒に考えてほしかった。味方でいてほしかった。・・・苦しんでいることだけは理解してほしかった。ぼくのダメなところを叱責するのなら、同じくらい激励してほしかった。
 心療内科に週1度通いながら、それだけでおなかがいっぱいになるんじゃないか、というくらい様々な薬を飲んでも、眠ることもできないし、不安感も日増しに強くなっていった。「復職しなければ」という強迫観念から、心療内科のデイケアやリワークプログラムを受け、復職に向けて動き出したものの、本当はそんなことが出来る状態ではなかったのだと思う。それでもだいぶ無理をして半年後に復職したが、すぐに体調を崩して再休職、こころはバキバキに折れてひと月後に退職届を出した。

 まったく就業をしていない期間は延べ1年以上になった。パートナーの精神も限界に達し始めていたころ、学生時代の先輩から仕事の誘いを受けた。障がい児の通所支援を行っているNPOで働いているという。支援を受ける子の中には、発達障害を持つ子もいるということだった。1年以上お休みしたのに、まだ気力も体力も戻ってきていなかった。その上経験のない業種、職種で働くことに大きな不安はあったが、とにかく生きていくために働かなければと思った。ダメでもともとなら、ゼロから人生をやり直したいと思った。その気持ちを持てたことが大きな転機となった。転職直前に、パートナーのおかげで「もしかして人生ってどうとでもなるのかな?」と思える体験ができたこともあって、少しだけ気持ちが上向いた状態になった。

 子どもたちを支援する仕事は、果たして自分が行ってよいものかどうかという葛藤は絶えずあった。自己肯定感を持てないぼくが子どもたちとかかわっていいのだろうか。自分と近い境遇の子の将来を考えたときや、いま行動問題が生じていることについて話をしなければならないときは、自分自身に語りかけているようで、とてもこころがすり減った。
 ただ、子どもたちと向き合って、信頼関係が出来てきたとき、子どもたちの成長した部分や良い面を見つけられたときは、仕事に大きなやりがいを感じた。子どもたちもそうだが、その保護者の方からもたくさんの気づきをもらった。もしかしたら、自分の両親も大きな葛藤の中にいたのかもしれないな、と思うようになり、客観的に自身の親子関係をみつめる機会が増えていった。
 かつて極度のストレッサーになっていた「仕事」への価値観は大きく変わり、自分自身の人生について、新たな解釈を与えられるようにもなった。

 いつ以来だろうか。自分でも信じられないのだけれど、久しぶりに、人生って楽しいこともあるな、悪くないなと思いながら生きられるようになってきたのは。

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 結局、ぼくの特性は、乳幼児期からいまに至るまで、機能的な面では大きく変わっていないのだ。
 それでも、ぼくの人生が「それなりに楽しい時期」と「死んでもいいと思うくらい楽しくない時期」という両極を行き来しているのは、ぼくがその特性をどのように解釈しているか、という1点に尽きるのだと思う。
解釈を行うには、周りからどう評価されるのか、自分がその環境を快適と思えるかどうか、といった外部環境も重要になる。また、自分が行っていることに対して興味を持てるのであれば、ぼくの特性のマイナスの部分はそれほど表出してこない。解釈を行う際に無意識に使用している判断軸を、なるべくプラスのものにしていくことが、「それなりに楽しい時期」を増やしていくことにつながるのだと思う。

 正直、今でも「こんな風に産まれてこなければよかったな」と思うことがある。
 1度本格的に体調を崩したこともあるが、いまだに不眠は続いているし、気圧などの環境変化でひどく落ち込んだり、体調が悪くなったりする。いまの職場では、得意な部分を買われて勤務時間に縛られない管理職になっているためそれほど問題にはなっていないが、安定的に一定の出力で働く、というサラリーマン的働き方はおそらく難しいと思う。
 生きるために何をおいても働かなければいけない、という場面において、ぼくはものすごく脆弱だ。服薬で多少はましになってはいるけれど、興味の偏りをコントロールすることはものすごく難しい。労務を提供している時間で評価される職場では、ぼくはまた「だめ社員」のレッテルを張られてしまうだろう。「好きなこと」で、かつ「体調に合わせて出力を変えられること」でないと、継続できないのだ。環境の融通がまったくきかない自分自身について心底不安になるし、強烈な不便さも感じている。

 ただ、嘆いても状況が変わらないのであれば、自分のできることや持っているもので生きていくしかないのだな、と思う。自分が継続的に働ける選択肢を見つけ出したり、作り出したりしていくしかないのだと思う。ダメでもともとの諦めからスタートを切っていくことが、かえって前向きな気持ちになるきっかけになった。

 「発達障害」という特性を受容できているかと問われると歯切れの悪いことばしか出てこないが、歯切れの悪さを少しでも言語化できるようになったことは多少なり救いになっている。
 きっとそう遠くない未来に、また苦しいことが起こり、「死んでもいいと思うくらい楽しくない時期」が来るのだろう。その時のためにぼくが備えておけるのは、多くの解釈の道具を持つことなのかな、といまは思う。
 ぼくはぼくとして生まれてきた。人それぞれ、自分をどう受容しているかは違うだろうし、発達障害と診断されなくても、自分の嫌いな面を見つめ、諦めながら生きているのだと思う。

そういう意味では、きっとぼくはマイノリティというわけでもないのだ。

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