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ない日記「生活リズムのいいニート」
いつもより甘い海苔の佃煮ができたので、生活リズムのいいニートに会いに行くことにした。
大学の同期である三上は、横浜にある実家に閉じこもって生活しているニートだ。歳は僕より一つ上で、いわゆるアラサー女子である。本人は「アラサー」の響きが気に入ってるらしく、二十八歳を超えたあたりから「ありがとうございました」を「あらしたぁ」と言い始め、今では完全に「あらさぁ」と言うようになっている。
三上はニートにしては珍しく生活リズムがいい。平日は朝七時に起きて日付が変わるころに寝ている。働いている訳でもないのに夜になるとしっかり眠くなるというのだ。これにはちゃんと理由がある。
三上の家では横浜に配達されるあらゆる新聞を取っている。朝刊も夕刊も届けられる。その新聞を読み込むというのが三上の日課である。朝七時に起きて、朝食を食べ、家の掃除洗濯を済ませ、九時ごろから新聞を読む。正午きっかりになると読むのを止めて、昼食をとり、十三時になるとまた読みだして、十八時までに新聞を読み切る。一日八時間きっちり新聞を読むことで適度な疲労と満足感を獲得しているのだ。
毎日に疲れてくると三上の家に行きたくなる。変わることから見放されていて、昼休みに教室の片隅で佇んでいた時間を思い出せるからだ。
その日、玄関を開けた三上は読売新聞を握りしめていた。連絡せずに家を訪れても驚いた様子がない。これまで家への突撃を繰り返してきた賜物だ。「捨てるの忘れてた」と、三上は玄関の隅に置かれたゴミ袋を差しながら言い訳がましく言った。
リビングに入り、斜めの位置でテーブルに着くと、三上は読売新聞の続きに取りかかり、僕は持ってきたパソコンを開いて作業を再開した。特に話すこともないので、時間がいつもの速さで過ぎていった。
十二時になると、三上は席を立ち、「カレー食べる?」と聞いてきた。三上は平日の昼食をカレーと決めている。鍋の中身を食べ切ることはなく、二日目のカレーに一日目のカレーを継ぎ足して、一と半日目のカレーを作り続けている。毎日異なる種類のカレールーを使うことで、すべてのカレーのベン図が重なりあうカレーの真ん中を目指しているそうだ。そんな三上のカレーはめちゃくちゃ美味い。正直、このカレー目当てで三上の家に行く節があるくらいだ。
三上はカレーを平らげると、食器を洗い、鍋に新たな食材を放り込んだ。「今日はハウスのジャワカレー中辛」と空箱を見せつけてきたので、「おお!」とそれなりの驚きをお返しした。ジャワの中辛はカレーを作り始めた初回のルーなので、ローテーションが新たに何周目かに突入したのだ。新しいことは何にせよ素晴らしい。そして三上は十三時になるまで鍋底が焦げないようにカレーをかき混ぜた。
三上がニートをやっている理由は、外が怖くなったからだった。大学を卒業し、実家に戻り、働き始めて四年目の秋、突如として外に出られなくなった。仕事にも慣れ、彼氏もできそうだったのに、ある土曜日の朝、単に玄関の敷居を跨げなくなったのだ。それから家で働くようになったが、しばらくすると仕事をするのも怖くなった。仕方なく会社を辞めた三上は、積もる勤労意欲を解消するために新聞を読み始めた。それから貯金を切り崩してあらゆる新聞を取って、読みこなす日々を送っている。
三上には読めない新聞のページがある。それはテレビ欄だ。僕がそれに気づいたのは二人で二十四時間テレビの話をしているときだった。あの巨大特番に入り込むレギュラーバラエティ番組の不思議さ、非日常に日常がポンと置かれるときの感覚で話が盛り上がったので、その年はどの番組が入ってくるのか確認しようとしたところ、三上が頑なに新聞のテレビ欄を見ようとしなかった。理由を尋ねると、「だってテレビ欄は未来じゃん。てことは外じゃん」と、三上は言った。「新聞は外で起きたことが書いてあるけどいいの?」と問いかけると、「新聞は過去を集めてるからいいの」と返された。そのときの三上があまりに真顔だったので僕は吹き出した。
灰色の置き時計からピピッと十三時を知らせる時報が鳴った。三上はコンロの火を止め、トイレに行き、両手にぐるぐるとトイレットペーパーを巻き取って戻って来た。それから一心不乱に何かをペーパーに書いた。三上の頭がパンクしそうになった証だ。新聞を読み、社会のあれやこれやを考えると、なにか問題の解決策が閃くらしい。ペーパーの端を手に取って読んでみると、その筆致は相変わらずの切れ味で、単純なのに新しい考えが爪楊枝のように詰められていた。三上が過去から見つけたものはたしかに未来だった。だが、それを伝えてしまうと三上の生きがいを奪ってしまう気がして、「トイレットペーパーもったいねえな」と言った。そうすると三上は「もったいないは現在だからね」と言って、トイレットペーパーを便器に流した。
「友だち」という言葉に象徴される身近な人びととの親しさや、情緒をともに共振させながら「生」を深く味わうためには、これまでの常識をちょっと疑って、人と人との距離の感覚についてほんの少しだけ敏感になった方がいいのでは、ということを述べたかったのです。
友だちは必要なのだろうか。
友だちがいるといいことはたくさんある。どこかへ遊びに行ったり、たわいもないことを話したり、困ったときに助けてもらったり、挙げればキリがない。独りでいるのはやっぱり寂しいし、みんなでいると安心する。
でも、友だちに苦しめられることだってある。
例えば、みんなでその場にいない誰かの悪口を言うとき。生贄となるスケープゴートを作って親密さを確かめ合えば、そのときは安心できるけれど、いつか自分が排除されるのではないかという不安が募る。
多種多様な価値観が乱立して正しさを主張し合っている今、自分の価値観を確立することは大変に勇気のいることで、同じであることを強要する同調圧力に屈した方がラクになってしまっている。というか、そもそも自分の価値観を世界に問うことは難易度が高い行為なのに、やって当たり前みたいな空気になっているのが問題なのではないか。「みんなと同じであれ」という外圧は変わらないのに、「自分を主張しろ」という内圧が社会によって高められ、我々の体は押しつぶされそうになっている。
ある程度大きなコミュニティに属していれば気に入らない人は必ずいる。根本的に自分と何かが合わない人は脅威であり、同時に「生」を実感させてくれる貴重な存在でもある。そんな人と仲良くなるのは難しい。でも敵対するのもやっかいだ。そうするとなんとなく同じ場所にいる仲になる。この「なんとなく一緒にいる在り方」を最適解として採用していくことを僕は好ましく思う。
ニーチェは「愛せないなら通り過ぎよ」と言った。やっぱそれしかないよね、という感じだ。通り過ぎたらすぐに行き止まりで、折り返したらまた出くわしてしまうような狭い世界で生きているが、それでも「愛せるかな」と何度も自分に問いかけるのは素敵なことだ。そしてまた「愛せない!」と思ったら通り過ぎればいいのだ。
友だちについて考えると段々とツラくなってくる。他者に向き合う行為は自分と世界に橋をかけることで、足を踏み外せば「わからない」という深い谷に身を落としてしまうからだ。友だちとの関係で悩んでいる人に『友だち幻想 - 人と人の〈つながり〉を考える』(菅野仁、ちくまプリマー新書)をおすすめする。助けになるような考え方がひとつは書かれているはずだ。
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