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日本企業時価総額トップのトヨタ自動車の歴史とルーツ

金襴緞子(きんらんどんす)
→ 高価で美しい絹織物。

絹織物といってもいまいちピンとこない人がほとんどだろう。

ただ、日本の歴史を振り返ると、紡績産業がきっかけとなって成長した企業が多いことは、なんとなく理解している人も多いはずだ。

日本企業の中で時価総額がトップのトヨタ自動車のはじまりも紡績から始まっている。

そんなトヨタ自動車の歴史とルーツをまとめてみた。

トヨタのはじまり

トヨタグループの創始者である豊田佐吉は、1867年(慶応3年)に遠江国敷地群山口村(現在の静岡県湖西市山口)で農家の長男として生まれた。

1867年とは、江戸幕府15代将軍の徳川慶喜が大政奉還を行い明治政府が誕生した年である。

豊田佐吉は、父の豊田伊吉の元で大工修行をしたり、紡績会社への就職を試みたり、家族に無断で東京へ出るなど新しいことにチャレンジするアグレッシブな若者だったという。

そして、豊田佐吉が18歳になった1985年、政府は発明の特許を保護する、専売特許条例を施行した。

当時の織機は、両手を使わなければ作業ができなかったバッタン付き高機と呼ばれていた。

そんな織機を改良し、片手で作業ができる豊田式木製人力織機を発明し、1891年に初めてその特許を取得する。

その後も豊田佐吉の織機にかける情熱は続く。

1895年に糸繰返機、1898年には元々目指していた蒸気動力によって作動する木鉄混製動力織機の特許を取得し、豊田式汽力織機を完成させた。

積み重ねた豊田佐吉の特許と実用新案を合わせた工業所有権は生涯で45件におよび、その内38件は織機に関するものとなっている。

日本初の動力織機である豊田式汽力織機とは?

日本初の動力織機である豊田式汽力織機は、ただたた動力で動くという織機だったわけではない。

緯糸停止装置という画期的な機能が備わっていたのである。

その機能とは、よこ糸が切れたり、消費されなくなったときに自動的に織機を停止させるというもので、製品の品質安定に大きな効果を与えるものだった。

それだけではなく、その後も改良は続いた。

たて糸の張力を一定に保って切断を防ぐ装置や、たて糸が切れた際に織機を自動停止させる、経糸停止装置が加わることで、不良品の発生を防ぐことに大いに貢献した。

そして、この考え方が、現在のトヨタ生産方式の根底を支える考え方になっていることは間違いない。

豊田式織機株式会社の設立

豊田佐吉の発明した動力織機は、低迷が続いて統廃合の続く当時の紡績業界において大いに求められた。

その結果、個人事業であった豊田商会の資金力では対応できなくなり、1907年に豊田式織機株式会社が設立された。

豊田佐吉は常務取締役としてこの会社に迎えられると、それまで以上に研究開発に力を入れて、1907年から10年の間に16件の特許を取得した。

ところが、そもそ発明家気質であった豊田佐吉のスタンスは他の経営陣との間に溝を生むことになる。

それが会社の業績が上がらないのは、発明や試験に社員の気が奪われすぎているからだということで、その責任を取って常務取締役の辞任を求められることに繋がる。

こうして豊田織機株式会社を離れた豊田佐吉は、アメリカとヨーロッパへの視察へ旅立つ。

豊田紡織株式会社という新たなる舞台

約1年の視察を終えて帰国すると、字米田(現在の名古屋市西区)に土地を借りて、豊田自動織布工場を設立する。

特許権の譲渡などで得た資金を元に自動織機8台を含む200台の織機を揃えた工場だ。

豊田佐吉は、自動織機の研究を続ける中で日本の糸には品質のムラがあり、さらに張力に問題があることに気がついた。

その結果、糸の品質を安定させるために独自の紡績工場を設立し、豊田自動紡織工場へと名称も改められた。

そして、第一次世界大戦の影響によりヨーロッパの紡績産業が軍需産業へと転換していく中、それに代わって輸出を伸ばした日本の紡績産業は大きく躍進した。

その波に乗った豊田自動紡織工場は株式会社へと改組され、1918年に豊田紡織株式会社が設立された。

豊田佐吉の新たなる舞台となった会社である。

自動車事業への参入

1894年、豊田佐吉の長男として豊田喜一郎が誕生する。

この豊田喜一郎がトヨタ自動車の創業者となるわけだが、そのキャリアは1921年に豊田紡績へ入社するところから始まる。

本格的に自動織機の開発を始めた豊田喜一郎はイギリスのプラット社での研修を含むヨーロッパ視察を経て、1924年にG型自動織機と呼ばれる新型の自動織機を完成させる。

このG型自動織機を量産するために、今の愛知県刈谷市に新しい工場を建設することを立案する。

こうして新工場の設立が決定すると、自動織機の製造を専門とする、豊田自動織機製作所が1926年に設立された。

トヨタグループの発祥の地に立っているトヨタグループ館は、旧豊田紡織株式会社本社事務所を建設当時の状態に修復したものだ。

その後、G型自動織機は海外にも積極的に輸出され、世界的に高い評価を受ける。

そして1929年、イギリスのプラット社に織機に関する特許を10万ポンド(現在の貨幣価値で約10億円)で譲渡契約を結ぶ。

また、この頃すでに自動車の製造を志し、実際に製造を始めていた豊田喜一郎は自動車工場の視察などを行なっていた。

そのきっかけになったのは、1923年に起きた関東大震災だった。

交通インフラの中心であった鉄道は震災によって壊滅的な被害を受け、輸送手段として自動車の需要が飛躍的に高まったからである。

アメリカのフォードやGMが日本に組み立て工場を作り、日本の自動車市場をほぼ独占することになっていた。

国産自動車研究のはじまり

そんな時代背景の中、1930年頃から国産自動工業を興そうという気運が高まり、豊田自動織機製作所の中にも自動車研究室が設けられた。

設立当初は常務取締役であった豊田喜一郎の個人研究という形での発足だったが、本格的に自動車の研究開発が始まる。

それから、1931年に60ccの2気筒の小型エンジンを完成させ、1933年には自動車研究は正式に豊田自動織機製作所の事業となり、試作工場も設立された。

その後、シボレーのエンジンをベンチークとして、A型エンジンの製作を開始した。

1934年に完成したA型エンジンは、OHV方式の直列6気筒エンジンであり、3,389ccの排気量から65馬力を発生させた。

研究開発が始まった当初は純国産とはいえなくても、徐々に研究開発が進むことになる。

第二次世界大戦と自動車開発

その後、自動車開発は順調に進んでいく中、1938年に第二次世界大戦が始まり、トヨタなど一般の企業にも影響を与え始める。

1938年にAA型よりも小型のエンジンを搭載し、経済性に優れた車の開発を当時の商工省から要請され、中型乗用車の試作を開始する。

ところが、ほとんどの研究開発が戦争の影響によって開発が中止される。

そして1945年、約6年に渡った第二次世界大戦が終わると、敗戦国である日本はGHQの管理下に置かれ、自動車の製造も制限されることになる。

トヨタ自動車工業の拳母工場も空襲によって大きな被害を受け、9,500人いた従業員は3,700人にまで減った。

トヨタ自動車工業の社長であった豊田喜一郎は、自動車製造が禁止される可能性も考えて雇用を維持するための新規事業を模索し始める。

その新規事業を研究するために設立されたのが、トヨタ研究所であり、そのミッションは衣食住を中心にした事業の研究である。

自動車開発については、GHQの制作により制限がかかる中での開発が続いたが、小型のトヨペットをきっかけに今の地位を築くに繋がるという歴史だ。

まとめ

トヨペット以降のトヨタの代表作はいくつもある。

クラウンやランドクルーザーを始めとして、今なおファンの多い車種が多々あることは周知の事実だ。

小話として知っておいてもいいのが、豊田佐吉や豊田喜一郎の名字である豊田はトヨダが正解だ。

実際、1935年に登録された商標は元々の発音である、TOYODAとなっている。

にも関わらず、トヨタという名で知られるようになったのは、1936年に新しいロゴマークの懸賞募集が行なわれたことにある。

そこで選ばれたのが、トヨタといカタカナを使ったロゴマークだった。

こうして、1937年に正式にトヨタと商標登録し、それ以降は社名にトヨタが使われることになったのである。

そして、ガソリン車からEV時代が到来している今、豊田佐吉や豊田喜一郎が築いてきた礎はどのようにトヨタを変えていくのだろうか。


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株式会社stakは機能拡張・モジュール型IoTデバイス「stak(すたっく)」の企画開発・販売・運営をしている会社。 そのCEOである植田 振一郎のハッタリと嘘の狭間にある本音を届けます。