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 震える足になんとか力を込め、おずおずと立ち上がりながら私は岩から顔を覗かせた。インコの姿はもう見当たらないが、まだ遠くには希美の後ろ姿が見えた。彼女もまた息を切らし、肩を激しく上下させていたが、しかしまだ諦めたわけではなさそうだった。上気した表情でじっと空を睨みつける彼女は、私が知っている彼女よりも一段と凛々しく見えた。いつの間にか私は、久々に見る彼女の姿にすっかり引き込まれていた。そしてほとんど無意識のうちに、私のペン先は彼女のことを綴り始めていた。彼女の姿に見惚れるがあ

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      とても長い20秒だった。20秒数えて立ち上がる。これは希海とかわした約束だ。影の薄い私をいつも気にかけてくれた彼女。机に入れていた日記を男子に大声で読まれた時に取り上げてくれたのも彼女。家では読ませてもらえなかったマンガを彼女の家で一緒に読んだ。感謝と同時に、憐れまれているようで憎しみが込み上げることもあったし、そんな拗ねた自分が嫌いだった。期待と罪悪感が入り混じった感情を押し殺しながら、永遠とも思われる20秒のあいだ、陽の光を照り返す川面に、想い出が陰影を与える。 そう。

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        え??希海…?? しまった…つい長く見すぎてしまった。 彼女はとっさに傍にあった大きな岩の後ろに身を隠した。 心臓がドキドキする。手も震えてきた。隠れる必要なんてない、隠れなくてもいい、、でもどうしてかあの子から私が見えないようにと願う。 あのこは本当に希海だ。笑うと八重歯が覗かせて、チャーミングなあの子。彼女がいるだけでクラスの空気をパッと変える太陽みたいな女の子。 あの小さなインコは彼女が飼っている子なのかな、。 …よし20秒数えて立ち上がらなきゃ。

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           このように嫌なことなら、いくらでも思い出すことができる。私自身の暮らしている世界には、嫌な出来事がありふれていたから。きっと、それらは普通のことではなかったはずだ。普通の中学生なら、経験しなくて済んだようなこと。でも私は、それらを経験してしまった。なぜなら私は、「普通の少女」ではなかったから。中学校に入る少し前に大病を患い、中学三年の夏になるまで外出許可が下りなかったこと。そのせいで、中学校では一人も友達ができなかったこと。もっと言えば、そもそも私が左利きだ、ということさえ

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          あらゆる事柄をメモする。その習慣ができあがったのは、その頃からだった。同じ病室の患者、看護師、医師の一挙手一投足、彼らからみえる自分自身について、また時折、窓の外から見える中学生たちの営み -部活動そのものよりも、それを遠目に見ている帰宅部の生徒の方に興味を持った- に至るまで、メモすることが習慣となっていった。自分自身に関する医師や看護師の話を、自分の記憶と照らし合わせることは興味深い。例えばこうだ。手術後に全身麻酔から醒めはじめた時、目醒めのだるさよりも鼻から喉奥に広がる

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          病室の窓からみえるグラウンドは少年少女の輝きで溢れていた。朝の部活の時間、体育の授業中、昼休み、放課後、例えグラウンドに誰もいない時間でさえも。途方もないほど寂しさを感じるとグラウンドをみて、私があそこにいけたら…と妄想を掻き立てた。

           川面に散らばった光の粒に、水浴びをするカルガモの親子、そして砂利を踏みしめる足の感触までもが、少女にとってはとてつもなく新鮮であった。彼女が普段目にする光景といえば、せいぜい病室の窓から見える中学校のグラウンドくらいだったのだから。

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          晩春、あるいは初夏と云おうか、太陽を照り返すアスファルトの眩しさに耐えかねて、横に並んで流れる川の砂利道に外れて歩くことにした。小川というには広く、また川というには大きすぎる程度の川のほとりをひたすら歩いてみる。

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          夏の昼下がり一人の少女は熱いアスファルトの上を歩いていた。右手に小さなメモ帳を持ち、左手はボールペンを持ち、心には大きな決心を固めて。