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「ダンス・ダンス・ダンス」な日々。


オペラに比べて、バレエというのがどうにも苦手だった。

2時間ほどかかる長いストーリーを「言葉なし」にダンスだけで表現するなんて、そもそも無理があるんじゃないかと思っていた。

それでも「くるみ割り人形」や「白鳥の湖」はチャイコフスキーの音楽の素晴らしさに助けられて何度か実演を観たことがある。ロンドンのロイヤル・アルバートホールの天井近くから見下ろした「白鳥の湖」は、地の底から湧いて来るような群集劇の迫力を感じてそれなりに楽しめた。でも日本で観た「眠りの森の美女」は正直、退屈だった。

ヨーロッパのオペラハウスではオペラとバレエの公演が交互にある。

ロンドンもパリもウィーンも、劇場付きのバレエ団が世界最高峰の踊りを連日披露している。それだけバレエ人気は絶大なのだ。日本だって熊川哲也率いるKバレエカンパニーは根強い人気を誇っているし、僕もかつて取材したことがある。極東の地にバレエ文化を定着させたいという夢と情熱は眩しいほどだった。

にもかかわらず、バレエとなると僕はどうしても二の足を踏んでいた。ひいてはダンス全般にも。

テレビで偶然、あのダンスを見るまでは。

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それは正確にはバレエではなく、コンテンポラリー・ダンスと呼ばれるものだった。

ピナ・バウシュの「カフェ・ミュラー」。1978年にヴッパタール舞踏団のダンサーたちによって初演され、振付のピナ自身も踊った。

衝撃的だった。木製の椅子が無造作に並べられた閉店後の薄暗いカフェ。そこをふたりの女性が夢遊病者のようにさまよい、ウェイターの男性が先回りをして彼女たちがぶつからないように椅子をどけて回る。基本動作はそれだけ。でもこれが痺れるほどの世界観を作る。

その動きは計算されているのか? そんなはずはないと思うのだが、その一見無秩序な動きの中に登場人物の物語性までもが垣間見えてきたりする。こうなるともうダンスというより演劇に近い。

いろんな規制を取っ払い、それぞれの設定に応じた自由な魂の動きを尊重したということなのだろうか。人が体を動かすだけで、これほど心が震えるとは思ってもみなかった。

それはそう、音楽以上だった。


僕の知り合いの編集者に長く演劇担当をしている男がいる。

夏休みに2週間近くひとりでエジンバラ演劇祭に行くような演劇通だ。ダンスにも強い。クラシックバレエはもとより、あらゆるダンスに通じている。

彼はいま、池袋の公共ホールで演劇担当として活躍している。その彼から、勅使河原三郎の新作ダンスのお誘いを受けたことがある。

音楽はアルバン・ベルクの「抒情組曲」。下手で生の弦楽四重奏団が濃密な音楽を奏でる中、勅使河原三郎と佐東利穂子が闇の中を縦横無尽に跳ね回る。

なにか言葉にできない感情を表現するとき、時にダンスは言葉以上に雄弁であることを僕はこのとき教わった。

勅使河原

先日、新しく勤める出版社から連絡がきた。

著者との打ち合わせがあるという。彼女は「バロック・ダンス」の第一人者だった。ルイ十四世の時代、ベルサイユ宮殿で花開いたメヌエットやガボット、クーラントの「舞踏譜」なるものが残っていて、それをもとに往時のダンスを現代によみがえらせる、というものらしい。

痛いところを突かれたな、というのが第一印象。でもこれをきっかけにダンスの魅力に目覚めればいいなと秘かに楽しみにしている。

もしステップのひとつも踏めるようになったら、強引に彼女の手を取り、その腰に腕を回してみようと目論んでいる。

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「付記」
ヴィム・ヴェンダース監督が撮ったドキュメンタリー映画「ピナ・バウシュ 踊り続けるいのち」も鮮烈だった。冒頭、ヴッパタール舞踏団のメンバーが「春の祭典」を踊るのだが、徐々に彼らの薄い衣装が汗で染まっていくのがなんともリアル。現代の息吹をまともに浴びるようなハルサイ。お好きな方は是非。

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