超人になる。
価値なんて時代と共に移り変わるものだし、
文化が違えば全く別物になったりする。
価値とはそういうものだとした時、
あなたはどういう気持ちになるだろうか?
①
自分の価値を置いていたことが絶対的なものではないと気づき、気持ちが楽になるだろうか?
そして、絶対的なものがないのならば、自分で価値観を作り上げても良い。作り上げていこう!と積極的に願うようになるだろうか?
②
はたまた、本当は全てに価値がないと感じ、生きる意味が見出せず、苦しみの中に入っていくだろうか?
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真の価値とは?
人は何か大きな困難に直面するとその困難がもたらす、心的・身体的苦しみから逃れようと、自己の観念(価値観)について変容を求める。事象や他者、環境はコントロールできないことが多いので自己を変容させることしかないということに多くの人が気づいていくからだ。
そして、「困難というのは、自己の価値観に基づきそのように感じているだけのものだ」ということに気づくことも往々にしてあるだろうし、またその「自己の価値観は社会構造・文化的背景によって形作られた節がある」ということに気づく場合もある。
真の価値とはどこにあるのだろう?
真の価値をどこに見出すだろう?
さて、ここで冒頭にもどるのだけれど、
価値が移り変わるものであるとした時、
あなたはどういう気持ちになるだろうか?
①、②どちらだろうか?はたまたそれらに該当しないこともあるかもしれない。
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私の話
少し私の話をしようと思う。
以前の記事(「普遍で不変な身体の価値」2024/6/19)にも書いたように、私の場合は虚無的になってしまうことが長い間続いた。自分が価値あると信じていたものがこの社会構造ならではのものだったこと。他文化からしたら無価値だということ。また自分が絶対的価値観を持っていること自体が、他者の価値観を否定し傷つけてしまうのではないかという葛藤。全部無いなら今ここで起こす一挙一動に何の意味もない気までしていた。
自分は何を軸に生きていけば良いのか、自分にとっての生きる意味とは何か、他者と生きる中でどう在れば良いのかを問い続けていた。でも絶対的なものがないのだから、行き場を失った迷子のようで、いや、迷子の方が自分の行き場(帰る場)を知っているのだからマシだと思えるくらい、迷子より心許ない状態だった。
いわゆる消極的ニヒリズムの状態である。
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消極的ニヒリズム/積極的ニヒリズム
実際その消極的ニヒリズムの時期に「ニヒリズム」という概念に出会い、また「積極的ニヒリズム」というものにも出会った。概念もおおよそ理解した(つもり)。これによって自分がどこに居て、どこに向かえば良いのかはっきり分かった。
でも、、
消極的な状態から積極的な状態にいく方法が、またそこからしばらく分からなかった。自分がどこにいて、どこを目指せば良いのか分かっていてもどうやっていけば良いのか全く分からなかったのだ。
道がわかれば、多分向こう側(積極的態度)にずっといられるはず。でもそれが出来ない。
例えばこの場所(消極的)とあの場所(積極的)、枝分かれする分岐点があった時、こちらとあちらを選ぶ人間の間には、なんの違いがあるのだろう?そこを知りたいのにっ!!
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外界軸か自分軸か
で、ある時不意に分かった。本当に不意に。
「ああ、これは意志の違いでしかないんだ。」と。
「だから自力で、自分の意志で向こう側を選ぶしかないんだ。」と。
そして、
その意思が持てるか持てないかの背景に
“外界軸か自分軸か”
というものがあることを。
外界軸
=世界に確固たる答えがないなら意味がない
自分軸
=自分に確固たる答えがあるから意味がある
結局、世界が何と言おうと自分が思うようにやるしかないのである。(だから唯一無二の自分だけの身体感覚を感じ、主観を信じていくためにヨガをしたり身体に向き合うことを日々している!)
人間はどこまでもいっても自分軸でしか生きられないのかもしれない。
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価値観の再構築
だけど、分かったからといってすぐに変われるわけではなかった。
・自分の価値観の再構築
・自分の意志で決めていいということを何度も思い出す
・自分の価値観を認め、相手の価値観を認め、それぞれ学び合いながら共存できるという観念の採用
これらをコツコツ、脳に、身に染み付かせながら、
それでもあちら側に行けるのは、やっぱり「あちら側に行く」というとても単純な意志でしか起こり得ないのだと気づいていくような時間の中を過ごした。
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超人になる
実はこんなことを書きながら、こんな面倒くさいことを考えてきたなんて少々哀れだとも思ったりする。こんな葛藤がなくとも人生を悠々と進めることができる人もいるからだ。そういう人たちって、そもそも自己の価値観と社会的価値観の一致感がそもそもかなり高かったり、もしくは、最初から積極的態度が天然でできる人なんだろうと思う。
正直私はこの消極的ニヒリズムになる以前、自己の価値観と社会的価値観の一致感がかなり高かった方なので、行動に迷いがなくドンドン行動を起こしていくような人間だった。
でも価値に疑心が生まれた瞬間、
全く足が動かなくなった。
だから考えた。
そして今は「あちらに行く」という意志を持つことに腹を括って、少し足の軽さを感じている。まだステップを踏んではいないけれど、軽さを感じられるだけがどれほど重要か。まずこの体感を得られたことに歓喜!
さて、そんな以前の私(何も疑うことなく楽しく過ごしていた)と今の私。どちらが良いのだろう?というと、この世に善悪がないのだからどちらでもないと言えるのだけれど、ただ、私にとっては、この面倒くさい道のりを辿る方が良かったのだと思っている。
なぜなら、
“自分の意志で世界を選ぶと本当の意味で決めている気がするからだ。”
これも私の価値観である。
この私の価値観を存分に採用し、生きていきたいと思う。
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知
知の使い方とは本当に難しいと思う。
でもその知を本当に自分の糧にした時、
揺るぎなく計り知れない力になるんだと思っている。
そしてもっと生きやすいのだ、とも。
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