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インタービーイング


宗教(特に仏教)や哲学には、
割と興味がある方で、

とても熱心に勉強するとまではいかないけれど、
気になった本や信憑性の高そうなネットのコンテンツは見たりしている。

私は6年ほどヨガをやっているのだけれど、
ほとんどヨガ哲学について語ったことがない。
(もちろんヨガ哲学も人並みに勉強した。)

あっても、
「今言ったのが全てだと思わないでください。」
という前提で話すことの方が多い。


それはなぜか?

その世界に少しでも触れれば、
“その世界が深淵すぎる世界であり、
隅っこだけの一端の言葉で語るには恐れが過ぎる” という気持ちが個人的に湧くからである。


私は何も分かっていないということが分かる。


だけれど今回は、
私の日常の中の大きな”ユリイカ”として
その仏教思想の一つを備忘録を兼ねて
どうしても書いてみたくなった。

今回は多数の引用を使いながら、
敬虔な気持ちを持って書いていきたい。


ある禅僧が言いました。「修行をはじめる前は、山はただの山であり、川はただの川であった。長年修行をつづけてゆくと、山は山であることをやめ、川は川であることをやめてしまった。そしてものごとを正しく理解するようになったいま、山は山となり、川は川となった。」

生けるブッダ、生けるキリスト

山が川とか山以外のすべてのものからできていること、そして川が、山とか川以外のすべてのものからできていることが理解できたら、もう「山」や「川」という言葉を使っても大丈夫です。

生けるブッダ、生けるキリスト

今日もたまに読み返す大好きな本、

Thich Nhat Hanh ティクナットハン著の、
「生けるブッダ、生けるキリスト」
をパラパラめくっていたのだけれど、

今日は上の文章が、
以前よりもっと理解できた気がしたので、
今日はピックアップして文章にしてみている。


前読んだ時と今回読んだ時、
理解の方向性は変わっていないのだけれど、


その理解に、
より色味を加えたのが、


その間に聞いた、
大人気ポッドキャスト「コテンラジオ」の、
樋口さんの体験談であった。


本編は、 “唯識論” について語られているのだが、

この樋口さんの体験談は私的に、

上に引用した
「インタービーング(相即)」の思想と
親和性があるように感じられたので、

勝手ながら引用させていただきたい。
(私の相即の理解の手助けになったという点で引用させていただきます。)

比叡山に登って降りてきた時に、川沿いをずーっと歩いて行ったんすよ。で、その時に思ったのが、「この水なんなんやろ?」思ったんですよ。数時間前、数日前までは、雪としておそらく比叡山の山頂に降ったんですよ。で、比叡山の山頂に降る前は雪ったんですよね(空の上で)。で、降ったら比叡山なんですよ。比叡山の山頂にある土の上の雪なんですよ。で、それが溶けたら、川なんですよ。で、それが琵琶湖にバアーって(流れて)行ってたんですけど、川を通ったら川で。琵琶湖に行ったら琵琶湖なんです。だから僕、「川」って思いながら川沿いを歩いてたんですけど、「川ってなんや?」って言われた時に分からなくなって、「システム」としか言えないんですよ。

https://youtu.be/P-ZQoPG_NAY 本編9:15~


地球上の全ては、
どうやったってこの「インタービーング(相即)」の概念に当てはめられる。

「あなたはわたし、わたしはあなた。」

この世に “それ単体”で存在しているものなど、
何一つない。

そんなことを
なんとなくでも概念として持った上で、


”わたし”を認知し、”あなた”を認知する。


「全く異なる別のもの」という分断の観念は、

時に、

相互理解する意思までも
生まれる前に滅してしまう可能性があるし、


「苦しみ」「生きずらさ」を
増強するものにさえなってしまう。


そして時には、環境破壊にだってなる。


分断は自滅の予兆なのだと思う。


(なんだか偉そうな口調になったのだけれど、自戒のために書いています。)


生きていると嫌なものは、根絶したくなる。


でも表層的になくなったように見えても、
生きている限り全ては繋がっている。


そのことはやっぱり覚えておきたい。

さて、
大枠の自分の採用したい思想をゲットできたところで、
日常生活の細々した一つひとつの出来事にどのように落とし込んでいけるか?

そこまで(行動してこそ)が、
思想をゲットしたということだと思うので、


日々鍛錬、鍛錬、です、、!

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