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私たちは3つの歴史の中で生きている。 ~内山節著「日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか」のこと

キツネが人を化かす、という話は多くの人が聞いたことがあるでしょう。関西であればタヌキの方がメジャーかな。キツネは見たことないですから。本書によるとムジナ(アナグマ)やイタチが人を騙す、といった話もあるそうです。

昔話では定番のこういった話、もちろん昔話だけでなく日本中の多くの農村で語り継がれてきたものでした。しかし、あるときを境にこの国では誰もキツネやタヌキに化かされなくなってしまったのです。本書ではその境目は、どうも1965年のようだと述べています。

そこでまず、著者はさまざまな村の人々に「なぜ人はキツネに化かされなくなったのか」という理由を村の人々に尋ねて回るのです。

①1965年以降に失われてしまったもの

この1965年という時代に一体何があったのか。恐らくあなたはこう思ったでしょう。「それは高度経済成長だ」と。そう。確かにそれは大きな理由として挙げられるでしょう。より細かくいうなれば、高度経済成長が物質的な豊かさと引き換えに農村にもたらしたもの、それは農村の若い少年少女の都市への流出であり、そのことによるコミュニティや伝統行事の崩壊であり、また、ダムや道路といった公共工事だったり、あるいは住宅地の拡張による環境の破壊だったりしたのでした。

それに加え、人々の意識も変わりました。戦前の日本人と戦後の日本人の最も大きな違いは何かといえば、それは合理性にあるといえるでしょう。とりわけ経済と科学における合理性です。日本という国が敗戦から立ち直る時、そのために帝国主義に代わる国民的指針として採用されたもの、それこそが経済と科学技術の発展だったのでした。そして、それはある時期まではとてもうまくいった。本当に、とても。しかし、そのことは一方で、科学的とはいえない言い伝えや伝統を「迷信」として斥けることにつながったのです。

また、人間側の理由だけではなく、キツネ側の理由もあるのかもしれません。というのは、人を化かすキツネというのは、老練なキツネなのだと。古来からの日本の森林では、こうした年老いたキツネたちも暮らすことができた。しかし、焼畑農業の衰退や人工林の増加によって、こうした年老いたキツネたちが生きづらい環境ができてしまった。かつて環境の変化が原因でニホンオオカミが絶滅してしまったのと同じように。それゆえ、人を化かすことができるキツネがいなくなってしまったのかもしれません。なんて、ま、これはかなり「おいおい(汗)」という話ですけど、僕は好きですね。この理屈w

②歴史とは何か

さて、ここまで読んだあなたは、もしかしたらこう思っているかもしれません。「ああ、よくある文明批判ね」と。でも、本書の趣旨はそういうことではないのです。本書が述べているのは、ただの事実として、かつては村の人々は「キツネに化かされる」という経験をしていたけれども、今はしなくなった、ということです。それが「良い」とか「悪い」とかいう話ではないのです。

しかし、ここで僕たちがついこのことに「良い」「悪い」という判断を下してしまいそうになるのは、僕たちの「歴史」観が原因なのかもしれません。

通常、僕たちが「歴史」というとき、それは「客観的な事実」の積み重ねです。645年に大化の改新がありました、とか、1867年に大政奉還がありました、とか。で、645年から飛鳥時代になりました、とか、1867年から明治時代です、とか思うわけです。こういうのを著者は「知性的な歴史」と呼びます。

「知性的な歴史」は、確かに「客観的な事実」なのかもしれません。でも、この考え方には一つの大きな落とし穴がある。それは、そういった考え方には「前進している」や「発展している」という前提が、あるいは「前進、または発展していなければならない」という前提があるということです。つまり、常に最善なのは現在であり、過去は悪である、というバイアスがどうしてもかかってくる。

でも、実際には、人間やその社会が前進していたり発展していたりするかどうかは、一概には言えないわけです。もちろん、便利になることや、改善されることは多くあるけれど、その一方で失うものも多かったりもするわけですから。そして、失ったものが本当に不要なものだったのか、悪いものだったのかということを判定することは、本当は誰にもできないわけです。

そこで、著者は「歴史」には「知性的な歴史」だけではなく、「身体的な歴史」と「生命的な歴史」があるのではないかと問いかけます。

「身体的な歴史」とは、たとえば職人が有する「技」のようなものです。優れた職人というのは、知識ではなく自分の身体で覚えた感覚を持っていたりするでしょう。かつての農村の伝統行事の中には、その村のコミュニティに属する住民たちの「身体的な知」というものを育成する機能があった。それは、村という閉鎖したコミュニティの中でどうやったら村八分にされずに生きていくことができるのか、といったこともそうですし、あるいは仮に村の中で生きていけなくなったとしても、山の中でどうやったら一人で生きていけるのか、といったことです。そういった技術や知識の伝承が、「理屈」ではなく言い伝えや伝統としてかつて村の中で繰り返し行われてきたのでした。

「生命的な歴史」とは、今流行の言葉で言えば持続可能性、サステナビリティのようなものといえるでしょう。自然というものは本来サステナブルなものであり、それを尊重することで調和が保たれてきたわけです。また、これも「理屈」ではなくそういうものだ、とする伝統が過去の日本の集落には存在していた。あるいは宗教というものは、そのような「生命的な歴史」を語り継ぐための一つの方法とも言えるでしょう。

本書の中で著者は「知性的な歴史」を批判しようとしているわけではありません。本書自体、1965年という境目を基準にして歴史を述べているわけですから。ただ、著者は「知性的な歴史」が有用であることは認めながら、それのみにこだわることは「身体的な歴史」や「生命的な歴史」の流れを壊してしまう可能性があるよね、と示唆しているのです。それって「身体的な歴史」のみを重視したり、「生命的な歴史」のみを重視して「知性的な歴史」を軽視するのと同じくらい危険なことなんじゃないですか? と。

著者は言います。

「知性を介してしかとらえられない世界に暮らしているがゆえに、ここから見えなくなった広大な世界のなかにいる自分が充足感のなさを訴える。それが今日の私たちの状況であろう。そして、だからこそ、この充足感のなさを「心の豊かさへ」などと再び知性の領域で語ってみても、何の解決にもならないだろう」

③心の豊かさとは?

ここから先は、本書を読んだ上での僕個人の意見です。本書の著者の意見ではありません。

僕は「失われた20年」という言葉が嫌いです。かつてバブルを謳歌した世代の人たちが無責任に「失われた」と呼んだその時代に青春時代を過ごした人間として、「勝手に『失って』んじゃねえよ。ていうか、お前らが『失った』と思ってるものを俺らに押し付けるんじゃねえよ」っていう気持ちになるから。そして、そんな考えの延長線上で未来を悲観的に考えたくなんてないから。

今の時代にはびこっている一種の閉塞感、あるいは「こんなはずじゃなかった」感というのはどこからくるのでしょう。それは、もしかしたら私たちがあまりに「知性的な歴史」のみにとらわれているからかもしれません。

2011年の3月11日、街から消えてしまった電気の明かりの中で「何かが終わってしまった感覚」を感じた人も多いでしょう。あれはなんだったのか。というよりも、それから現在まで続いている「いや、本当はまだ終わってないんだぜ」みたいな幻想の押し付けは一体何なのか。

僕にはそういうことを言いたがる人と、戦争が終わってしまった後もフィリピンの山奥で戦い続けた人とが重なって見えます。結局日本という国は、国家神道や軍国主義という金糸玉条を科学技術や経済発展という言葉に置き換えただけじゃないか。

でもさ、もう終わったんだよ、戦争は。気づけよ。

もちろん、そうはいっても、現実問題として、私たちは「知性」しか拠り所がないというのもまた事実なのです。だから、「身体的なもの」や「生命的なもの」というものを、なんとか言語化していくしかない。そういうものは、一見オカルトに見えるかもしれないし、非合理に思えるかもしれないけれど、でも、いくらそうやって「無意味だ」というレッテルを貼ったとしても、あなたはあなたという肉体や生命から逃れることはできない。

「知性」はこの先「未来」に「希望」を与えることができるでしょうか。というよりも、そのような「希望」を見つけて前に向かって走り続けることが、本当に大切なのでしょうか。もしかしたら、今もっと大事なものは「未来の希望」よりも「この瞬間の充足感」かもしれないのに。

それに、もしかしたらそういう人たちの言う「未来の希望」って、本当は「希望」でもなんでもないただの「過去の繰り返し」かもしれないのに。

戦時中や戦後の復興期みたいに、これから先もみんなで仲良く手をつないで前に進まなきゃいけないの?

かつて、この国にはキツネに化かされる人たちが多く存在した。

そして、僕たちはもう、キツネに化かされたりはしない。

それが事実。

うん。そうだね。よかった……んだよね、それで。

でも、僕はね、ちょっとぐらいならキツネに化かされてもいいかなと、そんな風に思うのです。だって、その方がなんだかずっと楽しそうなんですから。


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