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真理には何の意味もない

今日、篠原資明さんの「差異の王国」という本を読みました。

本書はまず、篠原さんが若いころに感じたある疑問から始まります。論理的に考えることがある人なら、きっと誰もが一度は考えたことがあるだろう疑問です。

それは、一言で言うと、こういうこと。

「で、結局一番すごい芸術作品って、なんなのさ?」

もちろん、この疑問がナンセンスだとは、誰もが感じることでしょう。芸術に興味関心がある人なら、「いやいやお前、芸術ってのはそういうことじゃないよ」と、そう思うでしょう。

でも、でもね。理屈で考えればですよ、本物というものは突き詰めれば一つの何かに収斂されるはずだ、となるのではないでしょうか。優れた芸術作品が真実を表現した作品だとするならば、真実というのは一つでなければならないのだから、究極的には真実がたった一つであるように、たった一つの究極の芸術家や芸術作品が存在する、ということになるのではないでしょうか。

だから、僕は、実はこの疑問がそれほどナンセンスだとは思っていないのです。むしろ、わかるわーと思う。

でもね、そうは思いながらもね、さすがの僕も、この疑問が現実に即していないことはわかっているのです。逆に、すべての芸術作品が何らかの基準によってランク付けされ、一位とか二位とか決められてしまったら、そのほうがおかしい、気持ち悪い、とも思うのです。

たとえば、エンターテイメント作品というのは売り上げによってランキング付けされますが、だからといって、そのランキングが作品の価値のすべてを表している、なんてことは、さすがの僕も思ってはいないのです。そんなことを言ってる人がもしいたら「えー」と思うのです。

だから、つまり、要するに、理屈と現実は違うわけですね。当たり前のことなんですが。

でもね、だったらそこで、「いや、何で理屈と現実は違うのさ?」って、思いません? 僕は思うのですが。

で、YouTubeに篠原先生の「京都大学2015年度最終記念講義 篠原 資明(人間・環境学研究科教授)「美と政治 - いまかつて間の立場から」2016年2月15日」という講義があって、本書を読みながらこの講義も聞いていたんです。

そうしたら、最初のほうで

「哲学は真善美のうちの善と美を担当するべきなんですよ。真は科学に任せればいいんです」

というようなことを先生は仰っていて、それで、なるほどなーと、腑に落ちたのでした。

要するに、「で、結局一番すごい芸術作品って、なんなのさ?」という疑問は、「真」を問うているのですよね。ある意味で科学的回答を求めているわけです。

で、科学というものは本質的に物質を対象としたものの考え方です。科学は物質を対象とするから、「これは〇〇である」と言えるんですよね。

でも僕らは一般的に「人間」とか「芸術」とかは物質とは別の何かだと思っているから、そこに科学のやり方で「真」を示されると違和感を覚えるわけです。ついつい「いや、俺はそうは思わない」と言いたくなるし、そう言ってはいけない世界なんてディストピアだと思う。「リンゴは果物である」って言うみたいに「大人になったら結婚すべきである」とか「〇〇という作品は名作(あるいは駄作)である」とか言われたら嫌じゃないですか。


さて、本書のタイトル「差異の王国」とは、「芸術」のことです。

「芸術」について何かを語るということは、まあ大抵の場合、ある作品や作家がいかに素晴らしいかを語るということです。

では、「素晴らしい」とは何なのか。なぜある作品や作家が「素晴らしい」と言えるのか。

素晴らしい芸術作品とは、あるいは素晴らしい芸術家とは、その作品やその作家がどれだけの差異を許容するかにある、と著者は言います。

たとえば、バッハの「ゴルトベルク変奏曲」はさまざまな演奏家がさまざまなスタイルで演奏している。だからすごいんだ、と。だからそんな曲を書いたバッハもすごいんだ、と。すごく乱暴に単純化すれば、そういうことです。

つまり、芸術家や芸術作品の価値というものは「美」なわけですが、その「美」はまるで「真」のように、あるいはプラトンのイデアのように、作家自身や作品そのものにあるわけではなく、作家や作品とその「外部との間」に発生するわけです。

で、これは別に本書では語られていないことですが、恐らく、「善」というものもまた、ある人物やある行為そのものにあるのではなく、その人物や行為と「外部との間」に発生するのでしょう。

この考え方、僕はすごく大切だと思っていて。なんか、僕は世の中の大半は科学が絶対に正しいと信じている人と昔ながらのプラトン的な考え方が好きな人でできてる気がするんですが、この人たちみんな、ものの価値が「ものそのもの」にあると思ってるんですよね。

でも、僕が「この人すげーなあ」と思う人は、みんな「そうじゃない」って言ってるんです。「世界はものの総体ではなく事柄の総体である」と言ったヴィトゲンシュタインしかり、「言語にとって美とは何か」の吉本隆明しかり。

で、この本の著者もその一人です。

この「外部との間」を著者は「いまかつて間」と表現します。僕が表現した「外部との間」だと空間的ですが、本書ではそうではなく、それは時間的なものだ、というわけですね。多分、そのように解釈したほうが、「美」という価値を作家や作品そのものではなく差異に認める、という著者の立場がより強固なものになるのだと思います。

でも、ちょっとその辺は僕はまだしっかり理解しきれていないので、間違っているかもしれないですけど。

まあ、とにかく。

今僕がこの話をしている理由は、ここまで述べてきたことが、以前読んだ「時間は存在しない」という本とつながったからなんですよね。

で、このレビューにも書いたことなんですが、どうやら僕らにとっての「時間」という概念は物理学的に更新されつつある、と。

僕はこの本をしっかり理解できたとは言えないと思うのですが、でも、それにもかかわらず自信を持って言えるのは、この本に書かれている新しい時間の概念は「真」なのだろう、ということです。だって、先方は高名な物理学者なんですから。

ただね、これもレビューに書いたことですが、時間の概念が更新されたとして、それで実際に何かが変わるかと言ったら、多分何も変わらないと思うんですよね。別にそれでタイムマシンができるようになるわけでもないんですし。

つまりね、「真」という価値は、実はそれ自体には意味がないんですよ。なぜなら、世の中には「それ」が何かわかったところで、どうしようもないことのほうがたくさんあるのですから。

でも、たとえばその新しい概念によってタイムマシンができたとき、「時間旅行するのは善か?」とか「そんな時間の使い方は美しいか?」みたいな話になる。そこで初めて何らかの意味が生まれるわけです。

とは言えね、だからカルロ・ロヴェッリの「時間は存在しない」という本がちっとも面白くないかというと、そうじゃないんですよね。むしろ、めっちゃ面白いんですよ、この本。

そう考えると、最初の疑問「で、結局一番すごい芸術作品って、なんなのさ?」も、まったくナンセンスで何の意味もない疑問なんですけど、それなりに面白い問題ではある(あるいは、ありうる)わけです。だから、そんなこと考えるのは無粋だよね、と自分で思いながら、でも考えちゃうんだよね、という人がいたら、僕はそういう人結構好きなんです。

まあ、「真には何も意味がない」というのは少し違うのかもしれません。もっと正確には「真はただそれが真であること自体が意味である」ということ。

だから、「真」なるものは究極的にはたった一つなんです。

でも、本書の著者の篠原さんは、きっとこう言うと思う。

「いや、それよりさ、すごい芸術作品がいっぱいあったほうがよくない?」

って。


もしも「真」「善」「美」が理屈で勝負したら。

そうしたら、絶対勝つのは「真」でしょう。そして、世の中に「真」こそが唯一絶対の価値だという人がいたら、きっと誰もその人を言い負かすことなんてできないでしょう。

でも、だからといって、「善」「美」の上に「真」が据えられてしまったら。そんなことになってしまったら、きっと僕らは、何か大切なものを失ってしまう。

もちろん、だからといって、「善」「美」を上に据えることもまた、決して「正しく」はないのでしょう。僕らは多分、最低でも「真」「善」「美」の三つくらい、大事だといわれる価値を持っていた方がいい。

いや、ほかにも何か価値があるなら、もっといい。きっと、それはあるならあるだけいい。

だって、たった一つよりもたくさんのほうが、絶対に豊かなのだから。

それもまた、理屈の一つ。

そして僕は、そういう理屈もまた、好きだったりするのです。


最後に。

哲学者の三木清は「人生ノート」で次のように述べています。

「愛は私にあるのでも相手にあるのでもなく、いはばその間にある。間にあるといふのは二人のいづれよりもまたその關係よりも根源的なものであるといふことである。」

では、「真なる愛」あるいは「愛の真実」というものがもしもあるとしたら、それは一体何でしょうか。

また、もしもそのようなものが解明されたとして、果たしてそのことによって世界は、あるいは僕たちは、一体何がどのように変わるというのでしょうか?

もしもあなたが生きるために「愛」を必要とするのなら、あなたが理解するべきは「真なる愛」あるいは「愛の真実」でしょうか。

そうではないでしょう。

もしもあなたに愛が必要であるのなら、あなたは自分と他人との関係についてこそ考えなければならならない。その「間」をこそ、考えなければならない。

仮に、「真なる愛」「愛の真実」を科学的に定義したとしても、そんなことを理解できたとしても、でも、そんなもの、僕らにはまったく何の意味もないのですから。

つまりさ、篠原さんも、ヴィトゲンシュタインも、吉本隆明も、三木清も、みんな同じこと言ってるんだなあ、と思ったのでした。

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