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マイルス・デイビスの辞書に「間違い」はない

昨日、少し長い文章を書いたのですが、

今日ふと思いました。もしかして、そもそも僕の考える批評の定義が世間の考える定義と何かズレてるのかもしれないって。

それで、ネットで調べてみました。

なるほど。

辞書的な定義はまあ、それはそれとして、多分僕の考えがどこか世の中の大多数とはズレているとすれば、僕自身は悪いところを述べた批評は実質的には何の意味も何の効果もないと考えているところだと思います。

というか、そもそも悪いって何なんだろう、と。とりわけ芸術において「悪い」「間違っている」って一体何なんでしょうか。

「ブルーノートを超えて」という映画があります。

ジャズレーベルのブルーノートの歴史についてのドキュメンタリーなのですが、この中でハービー・ハンコックが語ったこんなエピソードがあるのです。

新進気鋭のピアニストだったハービー・ハンコックが、当時すでに伝説となっていたジャズの巨人マイルス・デイビスと一緒にライブをすることになりました。

そのとき、ハービーはある曲のアドリブ部分でコードを間違えて弾いてしまったらしいのです。

しまった、とハービーは思います。よりによってこんな時に。あのマイルスがこのことに気づかないはずはありません。

ところが、マイルスはそこで演奏を止めるわけではなく、少し考えて、ハービーの間違えたコードを生かした自身のアドリブを始めたのです。

そのアドリブによって、ハービーのミスはミスではなく、新しいコードの展開となったのです。「なるほど、そういうのもアリだね」と。

僕は、芸術というものはそういうものだと思うのです。無論、何でもありというわけではないでしょう。ジャンルにもよるでしょうし。でも、間違ってるとか、悪いとかって、その人の主観でしかあり得ないし、それはいつだって個性や新しさになり得る。

にもかかわらず、自分の主観で誰かの作品を「ここが間違ってる」「ここが悪い」って指摘することに一体何の意味があるのでしょうか。創作者にとっても、受け手側にとっても。ただの批評家の自己満足でしかないんじゃないのかなあ。別に自己満足でもいいのだけれど。自覚してるなら。

なんか、ほんと分からないんですよね。でもまあ、そう考える僕の方が間違ってるんでしょうね。どうでもいいや、人のことは。

ということで、また明日。

おやすみなさい。

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