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名前がほんとうに身についたとき、人は名前どおりの人になる。 ~マイケル・ドリス著「朝の少女」のこと

これはあるネイティブアメリカンの女の子と男の子の姉弟の物語です。女の子は「朝の少女」と呼ばれていて、男の子は「星の子」と呼ばれていました。

「朝の少女」は早起きが好きだから。「星の子」は夜更かしが好きで、嵐の夜に一人で星空の下にいたから。

彼らの両親も、彼らのことをその名前で呼びます。きっと、僕たちが普通に考える「名前」という文化を持たない人たちなのでしょう。

彼らの名前は、成長とともに変わってゆくようです。「星の子」は元々「腹ぺこ」と呼ばれていました。

もちろん両親から授かった名前だって素晴らしいものだけれど、彼らのように、周りの人から特別なあだ名で呼ばれるのもなんだか素敵です。

なぜなら、ちゃんと彼らのことを知っていなければ、彼らの物語を知っていなければ、その名前で呼ぶことはできないのだから。

たとえば本が好きな人だったら「文字に恋する人」とか、「時間を旅する人」なんていいかもしれません。誰かからそう呼ばれたら、「ああ、この人は自分のことを分かってくれてる」って、そう思いませんか?

もちろん、共有されるのはいい話ばかりではありません。星の子がかつて「腹ぺこ」と呼ばれていたように。でも、だからこそ、みんな道徳的に振る舞おうとするでしょう。誰だって素敵な名前で呼ばれたいから。

名前というものは不思議な、かけがえのない贈り物だ。人が自分につける名前、世の中に示す、すぐに忘れられてしまう名前、いつまでもずっと残る名前もある。その人のしたことからきた名前、ほかの人たちから送られて受け取る名前もある。あたしの弟が昔、腹ぺこだったことは、だれも忘れないだろう。けれども今日、みんなはまえとはちがうあの子のことばに耳をかたむける。星の子も、自分が大きくなっていて、もう子どもみたいにはふるまえないことを知るだろう。名前がほんとうに身についたとき、人は名前どおりの人になる。

姉弟は本当に仲が悪くて、いつも喧嘩ばかりしています。でも、心の奥ではお互いを大切に思い合っていて、星の子が二人だけしかいないときに朝の少女を呼ぶ名前があります。

その名前を見た時、ただ誰かの名前を呼ぶということだけで、「あなたを愛している」とか、「あなたを大切に思っている」とか、「あなたを理解している」と言うことができるのだ、と気づかされるでしょう。

本当は誰だって、特別な名前で人から呼ばれたいもの。もちろん僕もそうです。でもその前に、僕はどれだけの人を特別な名前で呼んであげられるのだろう。

父さんはいった。どんなものでも、おまえからかくれたり、おまえが通りすぎるのをじっと待っていたりはしない。だからこの世の何に対しても、おまえは礼儀正しくふるまわなくてはならないのだよ。


最後に僕の一番好きなエピソードをご紹介。

「朝の少女」は自分の姿がとても気になります。自分はどんな顔をしているのだろう、と。水に映して見てみようと思うのですが、いつも弟が邪魔をするのでそれもできません。

ある日朝の少女はお母さんにそのことを尋ねます。するとお母さんは朝の少女に目を瞑るように言うのです。

そうして少女の手を自分の顔に当て、もう片方の手を少女自身の顔に当てます。手でふれて感じてみなさい、と。

少女は答えます。

「あごはヒトデみたいで、まゆげは水平線にかかった雲みたい。鼻は役に立ってる。ほっぺたは笑うと、もりあがって小さな山になる。ひとつだけまともなのは、耳だけね」

「そうよ、その通り」お母さんは少女にささやきます。

「そんな女の子が、わたしの朝の少女」

翌日、今度はお父さんが少女に言います。

「一つ、方法がある。わたしの目の中をのぞいてごらん?」

少女がお父さんの目をのぞくと、そこには二つの瞳に映った二人の少女自身がいるのでした。

「これが、おまえが知りたがっていたことの答えなんだ。この子たちはいつも、いつもここにいるよ。おまえが会いたくなったら、いつでも会いにきたらいい」  



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