夏の終わりに
大切な誰かを守ろうとした瞬間に、守られているのは自分だということに気がつく。
自分の身を投げてでも大切にしたい何かに出逢ったとき、人は、それを愛と確信するのだろう。
長くは続かないだろうとか、いつかは終わってしまうのにとか、そんなことばかりを考えてしまうのはきっと、私の弱さであり、脆さなのだと思う。
胸がぎゅっと締めつけられるような愛おしい感情を、どうすればそのままの鮮度で保っていられるのかがわからなくて、そっと肌に触れてみたり、頬を撫でてみたりする。
途端に高鳴る心音に、改めて生を実感する。
いつか本当に、本当に誰のことも信じられなくなったときは、私と一緒に星を眺めながら眠ろう。
私がいい理由よりも、私じゃなければいけない理由が欲しい。
そんな私のわがままを聞きながら「君らしい」と言って笑う友人に、私は何度救われてきただろうか。
心が大きく揺れ動く瞬間も、両腕では抱えきれないほどに溢れ出る感情も、私が大切に、大切にしているものだから、あげない。
浅はかで、それでいて卑しい、そんな見え透いたままで、私の心に触れようとしないで。
我慢をすることにも、空気を読むことにも、諦めることにも、もう随分と慣れてしまった。
だからきっと、そのどれもに違和感を抱いたそのとき、私はそこに、無上の安らぎと居心地の良さを覚えるのではないのか。
比較したい生き物の私たちは、いつも何かと何かをくだらない天秤にかける。そんなものでそれぞれの価値が決まるはずはないのに。
私も、誰かと、誰かのくだらない天秤にかけられているのだろうか。
心に余裕のないときは、人に優しくなれない。
何度もこの言葉を口にしていた彼女が、恋人の話を幸せそうにしていた。余裕がないのに、恋人である彼を理解しようと努めていた。
どうか彼が、私の大切な彼女に、余裕と安心と安らぎを与えられる人間でありますように。
今朝、身体に触れる風がいつもより少し冷たくて、心地がよかった。
また今年も、大好きな秋が訪れる。
それでは。
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