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おとぎ話とオープンリレーションシップ

台湾での同性婚が認められた翌日、親友の結婚式に出席した。大安吉日のカラッとよく晴れた日だった。

僕はこういうお祝い事のとき、泣かないようにふざけてしまう。賛美歌の声がデカイとか、牧師様のアーメンの言い方に癖があるとか、そういうことに目を向けて、目の前で起きている永遠の愛の誓いから目を背ける。真剣に聞きたくないのかもしれない。今現在、自分にパートナーや恋人がいない事実から目を背けたいのか、いわゆるそういう幸せが手に入りづらい日本の現状から目を背けたいのか。理由はわからないけれど、とにかく結婚式で泣きたくはない。

死が二人を別つまで、というフォーマルな関係について考えてみた。

ノンケだろうがゲイだろうが、その誓いを固く守っているカップルはどれくらいいるのだろうか。

「人は一人でいるのはよくない。結婚とはたった一人という孤独から解放される。神の御前で互いが愛し続けるよう、祈る。」

思わずメモを取ってしまった牧師様の言葉だ。反射的に耳に入ってしまったのだ、おそらく僕は、一人という孤独から解放されたがっているのだろう。今更だけど、美しい結婚式を思い出して泣けてきた。

もし、今、自分に結婚したいと思うような相手がいたとしたら、僕は間違いなくパートナー制度の選択を取り、形だけだろうと結婚式を挙げるだろう。単純に焦っているのかもしれない。ゲイにとっての30手前、恋愛にせよ仕事にせよ、何か踏ん張らないといけないときな気がする。男同士だから、子供を持つ(今の日本では夢みたいな話ではあるが)ことにリミットはない。ただ可能なら体力のあるうちに子育てはしたい。手に入りそうにないものほど人はそれに憧れるし、僕はそれを諦めたくはない。

ゲイの付き合い方の一つに、オープンリレーションシップ/オープンマリッジというものがある。セックスに関する考え方の一つで、セックスを互い以外のとこでもオッケーにして、二人の関係を維持しようとするものだ。合理的、ではあると思うし、ノンケの夫婦だってこういう言い回しをしていないだけで、生涯この人だけというような関係を結んでいるかと言われれば、クエッションマークが頭に浮かぶ。

死が二人を別つまで互いを愛し続けるためには、こういう選択は必要なのだろうか。人生のデコボコ道において、どんな選択を取ろうと、一人よりはマシなのかもしれない…。

と、ここまで書いたが、オープンリレーションシップに心から賛同できない自分がいる。どうしてもめでたしめでたしのハッピーエンドを願ってしまう。

そもそも外でセックスすることをお互いに許可する必要があるのだろうか。もしその関係に麻痺してしまって、大きな傷はつかなくなっても、小さい擦り傷みたいなものがどんどん増えていって、擦りガラスのように向こう側が見えなくなってしまう気がする。そんな不透明な関係は健全なのか。

ここで僕が言いたいのは、浮気が完璧な悪だという話ではない。大切にしたい関係なのであれば、死ぬ気でそれを守る努力をするべきだということだ。結婚というフォーマルな関係は、家族なんだからなんでも許してねという話ではないということ。甘えの上に成り立っているわけではないのだから。

もしかしたら、美しい結婚式を挙げた二人のどちらかが、別の誰かとセックス(恋愛ではなくセックス)をしてしまうことだってあるだろう。ただ、そのときに、互いが互いを傷つけ合わないことを心から祈る。初夏の空の下で交わした誓いを、形だけのお祭り騒ぎにしてはならない。

おとぎ話は、語られないことが多いからこそハッピーエンドなのだ。どんなに女癖の悪かった俳優でも、妻が死んだ時の弔辞が美談になることだってある。

いや、もしかしたら僕は、死が二人を別つまでというプロセスに重きを置きすぎているのかもしれない。それはそうか。僕のおとぎ話はまだ始まってもいないのだから、ハッピーエンドもクソもない。今からそんな心配する必要なんてないのか。

ただ、一つだけ最後に願うとするならば。

お願いです神様、どんな辛い物語でもいい、早くおとぎ話の一行目を読み上げてください。

やっぱり焦っているアラサーのゲイより。



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