《書評》批評は知識ゼロでも書けるか?│「僕が批評家になったわけ」加藤典洋
本書は、早稲田大学名誉教授で、批評家の加藤典洋による批評論。非常に多くの著作(批評家によるものや、小説家によるもの)を引用し、そこから批評の真髄を導き出そうとする。
本書は、根底にひとつの論旨がある。が、引用部分が非常に多く、主張も壮大な広がりを持つ為に、著者の主張を追うのがやや難しい。この書評においては、そうした広がりをバッサリ切り落とし、論旨において重要だと思われる箇所だけを論じたい。
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まず、第一章では、著者の執筆の契機について語る。著者は、田中康夫の小説「なんとなく、クリスタル」について文章を書いたのをきっかけに、文芸誌から声をかけられる。そこで、柄谷行人の「隠喩としての建築」についての論評を書く事になる。
つまり、著者は、批評家である柄谷行人が書く文章において、前提とされている思想家の知識がない。しかし、読者として応対する事に意味を見出して批評を執筆しようとする。これが著者の今後の批評的態度を決める。
この後、ザッと批評史を辿る。批評は、アリストテレスの「詩学」が始まりとされる。批評とは、何か。作品を見て面白いと思い、なぜ面白いのかを言語化してみる。こういった行為は古今東西で共通であり、よって批評というものが生まれた。しかし、何も作品を文芸作品に限定しなくてもいい。例えば日常において面白い事を言語化するのだって、広義の批評じゃないか。といった感じで、続いて「徒然草」についての言及が始まる。
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私は、この、批評の酵母を様々なものに見出そうという試みに、とても自由で、開放されていて、気持ちの良さを感じる。批評に対して、誰しもが書けるものとするのは良い事で、そう主張するなら、本当に誰しもの書き物に批評性を見出さなければならない。ある種の本質主義的な態度(「こうでなければ批評ではない」)を取らず、普遍的なものとされる事で、「考える行為」が開かれる。
一方で、著者の主張内では確実に開かれている批評とは、本当に開かれているのか?と疑問を持つ。何故なら、出版業界が開かれているか?という疑問があるからだ。現代でインターネットにおいて公開された著作物は大量に存在するが、その殆どは日の目を浴びない。日の目を浴びた時点で、権威者である。そして、権威者だけが思索を公開出来るかのような感覚を我々に与えてはいないだろうか。無論、公開出来ない、というのは妄想だが、無価値である、という価値判断をさせてはいないだろうか。
無論、こういった話はここで論じるには話が大きすぎる。ただ、考える行為だけに限っても、それは特権的なものではあるとは思う。誰にでも開かれているもの、ではない。考える事が出来る知能を持つという事が特権的であるし、整然とした文章を書く事が出来るのは一部である。(※1)
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第二章は、様々な著作に、批評の酵母を見出す。途中、幾つかの問いが提起される。例えば、「学問に正誤があるように、批評にも正誤があるのか」。しかし、この問は先送りにされる。第三章にて、批評を書く理由について語られる。ここで著者が語った理由とは次のようなものである。
つまりは、批評は陪審員制度のようなものだということだ。権威の中で正しいと思われている考えに対して、それはどうなのだと吟味し、時には反論する。こういった独自性を持つ(ので意義がある)。これには同意する他ない。無論、私が思ったのは、であるならば、批評自体が批評の対象とされなければいけないという事だ。これに関しては、実際にそういう意見が多数を占めているので、特筆する事はない。
第四章にて、著者が最初に提示した姿勢(即ち、ゼロから自分の頭で考える事)に対する検討が行われる。
なぜ筆者の姿勢がソクラテス的か。それは、批評というのは自分の頭で考えればいい、他者ではなく自己で完結させればいいとするからか。それか、考えればゼロからでも意見が出せる(想起説)とするからか。恐らく後者だろう。しかし、著者は、ここで、書籍を他者であると言う。つまり、読書において、他者との対話は成立しているというのだ。
さて、私はプラトン主義にかなり傾倒している為、この手の批判(即ち経験主義的に捉え、アートマン(自己)を有限とする)に対して応答したい気になれない。つまり、いわゆる神秘主義者的に、自己は無限だと考えているタイプの人間である。その事で問題が起こると言われたり、イデア説(プラトンが提唱した説,ものそのものを説く)がいかに論理的に反駁されても、想起しているという感覚は拭えない。
それは兎も角として、著者は他者を置く事によって、私は想起説を肯定する事によって、ゼロから考える事の正当化を行った。ここまでして、批評という行為の、それもゼロから始められる批評の、正当性を主張するのは何故か。それは、批評は開かれているべきだという著者の信念だろう。
それは、こうした書評を書いている私にとっても「頼りになる」「安心出来る」意見であるし、姿勢だ。批評を書くにあたって、教養を試されたり、知識で測られたりするのは苦しい。言語ゲームが開かれていて欲しい、と著者が言う時、それは誰でも楽しく言語を扱えるような社会であって欲しい、と同義である。当然の姿勢でありながら、優れた姿勢だと思う。
無論、知識ゼロから批評を成立させるといっても、ある程度の技量が求められるとは思う。しかし、逆を言えば、技量だけで勝負できる言論ゲームがあるという事は世界にとって有益なのではないか。無論、それへのアクセスはまだ十全に開かれているとは言えないが。
総評
本書は、独特で、かつ極めて読みやすい文体で、広がりを持つ批評論を展開しており、そのどれもが興味深い。一見、全体として捉えると、様々なテーマを一冊で論じているようで、難解にも捉えられるが、本旨は、様々な批評をベースに、著者の批評観を述べるものとなっている。
読むと、批評という営みについて好意的になるだけでなく、自分の徒然なるままに書いた文章まで肯定されるような気になる事ができ、ある種の救いがある。「考える事」という営みを、学問という権威に縛られず自由化する。かつ、世間(1階の住民)の声を忘れずに語ろうとする。ある種、俗世からの解脱をしてはいるが、俗世の視点を忘れない。
こういった態度は、著者の言葉の平明さからも十分に有言実行されていると分かる。恐ろしく読みやすく、読者に問い掛けるような文章で、世間に対して変に上から目線を取るという事がない。明らかに2階の住民ながら、1階を尊んでいる。とても好感を持てる著作だった。抽象的な箇所は多いが、「分かる」名著であった。