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夢を追う。夢を失わない。

武力に優るロシア軍の侵攻に対し、ウクライナ軍の抵抗は予想以上に激しいものになっています。

「おそらく数日で、首都キーウは陥落する」。ロシア軍が侵攻を開始した2月24日直後、ウクライナ軍のあっけない崩壊予測を報じたマスコミが多数ありました。しかしそれから2ヵ月以上が経ち、今では「ロシア軍はいつまで持ちこたえることができるのか?」という疑問に代わっています。

ウクライナ軍の粘りは、欧米諸国から多数の武器弾薬が提供されているからこそではありますが、欧米がここまで結束してロシアによる侵略行為に反対するに至った大きな理由のひとつとして、徹底抗戦を是とするウクライナ国民の固い決意がありましょう。

おそらく。
ウクライナ軍兵士やウクライナ国民には、「命を賭しても守りたいもの」が明確なのだと思います。私にはそれが何なのか理解できてはいませんが、その価値あるもの求め続け、けっして失うまいという強い意志を感じます。

すぐさま降伏すれば、貴重な命が失われることもなく、社会インフラだって徹底的に破壊されずに済むのに…。外部者としてそう考えるのは容易ですが、それではウクライナの人たちが大切にしている価値あるものへの考慮が欠けてしまいます。外部者が「命」に焦点をあてて語るのは自由ですが、それが「価値あるもの」を失うまいと死を覚悟して闘っている多くのウクライナ国民を、冒とくするものにならないかが心配です。

ミャンマーでも、「価値あるもの」を失うまいと命を賭している青年たちがいます。

昨年2月1日に発生した軍事クーデター後、傍若無人ぶりを発揮して民主派を「テロリスト」と一方的に指定し、法を無視して逮捕、監禁、拷問、処刑をくり返す「ミャンマー国軍」。ミャンマー青年たちの怒りは、尋常ではありません。

国軍の横暴に反発した民主派は、昨年4月16日に「国民統一政府(National Unity Government = NUG」を発足。国防大臣を置き、続く5月5日には「国民防衛隊(People's Defence Force = PDF)」を設立しました。そして軍隊経験のない多くの青年たちが、そのPDFに参加していったのです。

PDFは、これまで国軍との戦闘を繰り返してきた少数民族軍が中核となっています。そこに、都市部から多くのビルマ族の青年たちが加入し、少数民族と一緒になって、連日軍事教練に明け暮れていたのです。そして、発足から1年が経ち…。どうやら、プロの兵士たる国軍を苦しませているようです。

先月22日、国軍総司令官のミン・アウン・フライン上級大将が、少数民族の軍事組織に対し「対話」を呼びかけました。本日5月9日までに対話の呼びかけに応じた少数民族には、一定の条件下で自治権を認めるなど、かなり譲歩するつもりのようです。それだけ国軍が追い詰められている、という見方ができるかも知れません。少なくても、地元の優位さをもとに、陸戦ではPDFが強固な防御を維持しています。それゆえ国軍は、空爆によって少数民族の居住地を破壊する選択肢しかないわけですが、それもロシアからの弾薬補給が滞っているため、いつまで継続できるやら…(下の写真は、PDFに降伏した国軍兵士)。

軍事教練は今も続いています。

PDFは、「進軍」できるほどの作戦能力にはまだ至っていないようです(ごく稀に、ゲリラ的な襲撃は行っているようです)。さらに、現在は世界的にウクライナへの支援が主流になっており、ミャンマーの民主派勢力も、資金が十分ではありません。それでも、ビルマ族の青年たちが日に日に力をつけていることは間違いなく、その逆に、ミャンマー国軍は、内戦が長期化すればするほど、ロシア軍同様士気が落ち込んでいるようです。

ここにひとつの情報が。
ミャンマー国軍兵士は、ミン・アウン・フライン総司令官の息子が経営している保険会社に、強制的に加入させられています。こんな軍隊、世界でも稀でしょうけれど、長い独裁の歴史の中で、ミャンマー国軍幹部が経済成長によってもたらされた利潤を親族間で分かち合っていた証拠です。しかし現在の経済的混乱の中で、保険金の支払いが行われておらず。これには国軍内部で不満が高まっているというのです。

保険ばかりではなく、国軍幹部は国営企業の株を多数保有しています。しかしこちらも、現在は配当金の支払いが止まったままだというのです。

こうした経済的不利益の増加が、国軍の士気を大いに低下させているらしい…。まったく不思議な軍隊です。

ミャンマーの状況をみても、ウクライナ同様「士気」の大切さに気づかされます。

そしてその「士気」を生み出す源は、「命の大切さ」というよりも、「命を賭しても守るべき価値があるもの」を追い求め、失わないように努めたいという強い願望が関係しているように感じます。

そこで命を懸けている人たちは、「自分の命」ではなく、「今、自分が守ろうとしているものを謳歌している自分の子どもたち、子孫たち」を夢みているのかも知れません。そのような方々に向かって私にできることは、黙って頭を下げることだけです。それだけです。


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