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そもそもなぜ

大華山鳥雲窯

この仕事につくまで(尚子)

私は現在、洋食に合う器を製作するのが楽しみの一つですが、それは高校一年の時に交換留学で、一年間イギリスで暮らし、そこでの食事が印象に残っているからです。イギリスに行く前に、「料理美味しくないよ」と言われることが多かったのですが、言われていたほど食事を楽しめないという感覚はありませんでした(結果10キロ太りました💦)。加えて言えば、日々の食卓での盛り付け方や、来客を招いてのアフタヌーンティーは特に斬新で印象的でした。

料理そのものも、盛り付けも、繊細な感覚ではありませんでしたが、大胆なワンプレートの盛り付け方や、アフタヌーンティーの立体的な器(もはや器というよりタワー)はとても新しく、魅力的にみえました。

私は萩焼窯元に産まれましたので、家では多くの器に恵まれていましたし、母が料理好きだったので、味も盛り付けも器も、それなりにこだわったものだったとは思うのですが、その当時はそれには魅力を感じることができませんでした。なぜなら私はその頃、器にも、料理にも、込められているその想いに、気がつくことができなかったからです。私にとって、その食卓は、当たり前の光景でしかありませんでした。

しかし、一人で海外に住むことで、当たり前の光景から完全に離れることになりました。

英語もつたなく、言葉が思うように伝わらない中で、食卓は、一番のコミュニケーションの場でした。テーブルの上に並ぶ食事を、美味しいとか、好きとか、見た目が美しいとか、そういったことをシンプルに伝えることができるだけで、ホストマザーとの距離が縮まるのを感じました。

自分は日本の家で、ちゃんとこんな感想を持ちながら食事をしていたんかなあ?と、その時、思いました。

この気付きが、萩焼作家を目指すに至った、最初の転機です。

しかしまだ、大学進学の際には、高校時代の交換留学で学んだ言語への憧れが強く、英語に関わる仕事につきたいと思い、萩焼とは関係のない、貿易を学ぶことのできる学校を選びました。

ただ、その頃から、心のどこかに父の萩焼をはじめ、その他の日本文化を世界に紹介できたら、との思いはありましたので、全く家業から遠い未来を考えていたわけではなかったのですが、まさか造り手になる日がくることは想像していませんでした。

大学在学中、2度目の留学の機会をいただき、カナダに滞在する中で、二度目の転機が訪れました。

高校時の留学と、大学時のそれは随分違い(訪れた国の違いもありますが)、少しばかり英語を使えるようになっていたこともあり、様々な国籍の方々とのコミュニケーションを楽しむことができました。

が、その一方で、"言葉"が人を傷つけ合う道具にもなり得ることも実感することになりました。

この気づきが、二度目の転機です。

そして、小さいころからずっと、父の周りにいた人々や、父の印象を思い出した時に、

"私も、造り手になりたい"

と思いました。

というのも、父が自分の好きなものを作るために努力を重ね、トライアンドエラーを繰り返しながらも楽しみ、希に出合う納得のいく作品を手にする姿に、誰かを傷つける力があるとは思えなかったからです。"言葉"とは違う表現力として、新たな価値観を感じました。

これが、萩焼窯元に産まれながらも、幼少期に萩焼に興味を抱けなかった私が、今、萩焼の造り手として20年間活動している理由です。(五人の子供の育児で、とびとびの20年ではありますが)

父が萩焼作家になった理由は、聞いた感じだと、また私とは違ったものだと思いましたが

出発点は違えど、今、二人で同じ仕事を出来ているということで、父が開拓してくれたものを残していけるという意味において、青萩という個性的な色合いの焼物も、伝統として受け継いでいきたいと思っております😌

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今後とも、どうぞよろしくお願いいたします☘️


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