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461競技スポーツの専門“塾”

スポーツ庁が運動系の部活動を中学校から切り離し、外部組織に委ねる方向での検討を始めたことを新聞社説(産経2011.11.14)で知った。
まったく同感だ。検討などと言わずに、即座に実行してほしい。生徒に人気のスポーツは野球とかサッカーだろう。どの中学校にもクラブがあるだろうが、それに見合う数の専門知識や技量を備えた顧問教師を配置できているはずがない。「サッカーボールはどうして手で投げてはいけないのですか」と問うような数学教師が顧問では、プロで通用するような選手は育たないし、逆に無茶な練習法で身体を壊す生徒が出てしまう。
ハンドボールや相撲などいわゆるマイナーな競技では、学校単位では人数が揃わず、運動部自体が成立しない。
才能は若い芽を伸ばすことから始めなければならない。スポーツに限らない。このたび将棋で4冠を取った藤井プロも、中学校での囲碁将棋クラブでヘボ将棋程度の顧問教師に教わっていたのでは、これほどの成長はなかったはずだ。学校外のプロ棋士の道場で鍛えられることで、潜在能力が開花したのだ。

今回のスポーツ庁の検討方針の直接の理由は、部活の監督・指導が教員の重荷になっていることだという。正規の学業指導(授業)に加え、非行やいじめなどの生徒指導に時間を取られる。それに加えての部活指導では時間がない、体力が続かないとの教師の悲鳴に応えるのが、直接の理由らしい。
よい機会だから、これについても本格的解答を出すべきだろう。その答えは、学校が何もかも抱え込むのを止めることだ。その反面、自らの受託分野については逃げずに、責任を果たすことだ。その点、今の学校は、余計なことに手を広げ過ぎて、肝心の責任領域がおろそかになっている。
よく聞く話では、数学の教科書の説明に疑問を持った生徒が教師に質問したところ、「そういう難しいことは塾で教えてもらいなさい」と応対される。これは本末転倒ではないか。教科書レベルの数学は学校で教わり、理解させるべきである。音楽など芸術系でも同じ。ピカソ並みの抽象画はいざしらず、スケッチや日常土器の製作手法は学校で身につけさせる範囲内のはず。保健体育も同様で、全身運動での体力増進や疾病予防法は義務教育で身につける事項であり、塾で学ぶなどは論外である。
以上を学校が心がけることで、長期的には常識に欠けた大人を減らすことにつながり、短期的には塾通いを極限まで減らして家計負担を減らせる。そのうえでプロの指導者について学ぶ必要があると当人と親が考える分野で、専門の塾とか道場に通えばよいのだ。そのなかには囲碁・将棋、ピアノ、絵画・グラフィック、プログラミングなどと並んで、野球、サッカーなどのスポーツが含まれることになろう。

これがあるべき方向であるならば、社説の指摘にはいささか筋違いの指摘がある。
その一は費用負担の問題だ。社説では「外部組織への移管は会費などの負担も伴う。金銭面の事情で、部活には参加したくてもできない生徒が生まれはしないか。国あるいは自治体の補助が出るような制度設計が必要だろう」。これをなぜ筋違いと考えるか。中学生時代に身につけるべき標準事項を学校で習得させることができていれば(そしてそれが中学校の存在意義である)、超える部分に公的補助をするのは、行政の不当な過剰介入である。それを許せば、世の中の学習塾全般に補助金を出せという主張につながる。そしてその先に予想されるのは、公教育のさらなる空洞化、形骸化である。重要なのは公教育の守備範囲を現実に即して再定義し、領域を縮小することで、内実を伴わせることである。
これにより中学校の業務範囲のスリム化につながるから、実は公教育の経費総額を縮減できるのだ。水膨れ状態の公教育を、業務領域のみならず経費面でも効率化し、返す刀で業績を上げることになる。もちろん教師の疲弊の原因も取り除かれる。
社説は「大会や試合の多くは休日に行われる。外部組織の指導者が生徒を引率できるのか。事故が起こったときはだれが責任を取るのか」と問う。まさにそこが肝心。生徒や親と契約関係になるのだから、無責任、低技量での指導などは許されない。故意や重過失の事故では賠償問題になる。それに応じられる体制の外部組織の認定が必要になろう。それは直接行政でなくてもいいわけで、業界団体が形成され、㊜マークを作ることでも対応できよう。その意味では、監督官庁を決めるのであれば、スポーツ庁とかではなく、消費者庁によるほんわか指導が適任かもしれない。

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