387ヒトへの所有権

人身売買は許されない。少なくともわが国では。わが国には歴史的にも奴隷制度は存在しない。生きている他人を所有することが社会倫理的に容認されてこなかった。有史以来、奴隷制度を法的に認めてこなかった点でわが国は誇るべき人権国家なのだ。刑法に人身売買罪「人を買い受けた者は、3月以上5年以下の懲役に処する」が追加された(2005年)けれど、これは単に明瞭化しただけのこと。
生きている人への扱いはこのへんにして、死んだ人についても考えよう。普通、遺体には経済的価値はない。そのため死体の所有権を主張する実益がない。事例がないから市井人が考える機会はない。
しかし起こりうることを想定して対応を準備しておくのが、法治社会における立法議員の役割。それをしないのは侵入者に吠えない番犬のようなもの。考え始めると論点はいくらでも出てくるはず。そしてはっきりとした社会的合意ができていないことに気がつく。
例えば愛する人が死んだ。防腐処置をして(レーニン、毛沢東、金日成のように)、自宅に置きたい。これは許されるのか。墓地埋葬法について「土葬と火葬の規制があるだけなので、それ以外の葬法はまったくの自由でかまわない」という論があるという。それに乗っ取れば、ミイラ化して見世物にするのも合法になる。それらの実行者が現われたらどうするのか。「常識的にダメだよ」では納得しない場合への対処方針はできているのか。「法的にも禁止されている」という根拠を示すのが、法治社会での対応だ。

遺体への所有権に戻り、具体事例で考える。一代で事業を立ち上げた男性がいたとする。その事業を支えてきたのは二人の専務。男性が急死して、どちらが後継者になるかが目下の大事件。専務の一人は先妻との間の息子で、もう一人は内縁の妻。双方とも社内派閥を形成しており、関係先を巻き込んでの猛烈な多数派工作。「遺体を確保して法要を主宰すれば有利になるのでは」と双方が考えるのは目に見えている。戦いでは、錦の御旗がある方が俄然有利なのだ。
過去には遺体への所有権がある(大審院)とか、祭祀主催者に権利あり(最高裁)などの判決がある。でも、もっとわかりやすく国民が即座に理解できる考え方はないの。
生きている人間への所有権(奴隷制)が存在しないわが国では、死体への所有権も歴史的にあり得ないはず。国民の条理に照らして許されない。会社経営権に絡めて遺体を錦の御旗にするなど、人倫に照らして許されないことを明確化することだ。財産権とは切り離したうえで、しっかり法要することだ。それで先代社長の魂も浮かばれることになろう。

これには一部に反対論が予想される。そういう論者は言うであろう。死体に対する所有権が存在しないのであれば無体物。だれにも権利がない。言い換えれば義務も発生しない。よって親であろうが、夫であろうが、死んでしまえば不要物。ゴミ以下の存在であり、そのへんに捨ててしまってもかまわないはずだと。
条理上そんなことは許されないと、日本国民ならば思うだろう。だけどそれを禁止したり、罰したりする条項はない。これがその種の論者の言い分だ。最終的な決め手は法制度。刑法に人身売買罪を設けたのも、99%の国民には不要だが、条項がなければ合法であると強弁懸念を払拭(ふっしょく)するためだ。

刑法には保護責任者遺棄罪があり、保護責任ある者がその責務を果たさなかったら3月以上5年以下の懲役刑になる。単に路上で見かけた重病者を放置遺棄した単純遺棄罪が1年以下の懲役なのに比べて、はるかに重い。そして遺棄の結果、死なせた場合は遺棄等致死罪になり、傷害罪の量刑と比較して重いほうを課され、懲役の最長は15年にもなる。
日本社会は特に人と人の絆(きずな)や連帯を重んじる。生きている人への保護責任者の責任を問う社会である。この責任は、被保護者の死亡後にも及ぶと考えるのが素直である。
死体損壊等の罪は「死体、遺骨、遺髪又は棺に納めてある物を損壊し、遺棄し、又は領得した者」を3年以下の懲役刑にする。
遺棄致死罪と死体損壊罪を併せれば、同居の老親の看護をせずに死なせたり、その遺体を放り出して逃げたりすれば、罪状のどれかに該当するだろう。普通はそうだ。
問題は、老親との接触を故意に絶ち、その結果、死んだことも、その死体に蛆(うじ)が湧くのも知らなかったと主張する極端な不孝者の場合である。親の状況を知らなかったのだから”見殺しにした”わけではない。遺体に会ってもないのだから”死体を置いて逃げた”わけでもない。よって罪に問われることはない。ということでいいのか。簡単に言えば、多少とも人情がある者は罰せられ、徹底的に不道徳な者ほど罪に問われない。それでいいのか。

法制度は国民の道徳観、倫理観、慣習などの総合。各自の好き勝手を認めることではない。多文化共生を勘違いしている者がいるようなのが怖い。さまざまな文化的背景がある者が一つの社会を形成するために、どのように溶け込んで行くべきかである。古くから郷に入れば郷に従うという。その「郷」がフラフラぐらついてはいけないのである。

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