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ニュージーランドの海上で

ホストファミリー宅には、15歳の女の子と13歳と8歳の男の子、その両親がいた。
留学を終える間近の日曜日の朝、男の子2人とお父さんが、親戚宅に行くのでついてこないかと誘ってくれた。

下の弟が、
「笹も海でボートに乗ろうよ。とてもとても楽しいよ。」
と、満面の笑みをこちらにむける。

二つ返事でうん、いいよ、と答えると、そう聞いてきたくせに
「まじ!?」
的なニュアンスのリアクションを見せたのが、少し気がかりだった。

ホストファミリーの親戚宅に到着すると、トラクターのような車に「思っていたのとだいぶ違う」大きくて鋭利なボートが登載されていた。
ボートっていうか、船やん!ジェットボートってやつ!
車をしばらく走らせ、遠くにぷかんと浮かぶ、ランギトト島の全貌が見える海沿いにボートをおろすと、オレンジ色の本格的な救命胴衣を投げ渡された。

やな予感が胸をよぎった。


「いいかい、笹。海に出て走り出したら、絶対に手元の綱を放してはいけないよ。」


真剣な顔をして、父がまっすぐにそう言う。
神妙にうなずく私。
緊張で強張っていたのは、表情だけではなかった。
膀胱も既に、パンパンに強張っていた。

そう、尿意がしていた。
なんで先にトイレに行かなかったんだろう、と、この後何回も後悔をした。

白い船体が左右に、次第に上下に揺れながら、どんどんとスピードを上げる。
船は5人乗り。
5人の体が同時にぐわりと揺れる。
海上の三段跳びとともに脳がシャッフルされ、思わずウエッと戻しそうなくらいに、激しく揺れる。

もちろん、揺れることによって尿意も増す。
10本の脚、いや、私を抜くと8本の脚の間。
真っ白で汚れひとつない、きっとおじさん自慢の船の床に私の黄色いものが流れるようなことがあってはならない。絶対に。

ラストサムライのロケ地にもなったという、そう言われてみれば富士山にも似てる気もするランギトト島が、みるみる、どんどん近づいてくる。
地元のラウンドワンに闘牛・ロデオを模した乗り物があったけれど、それよりも何倍も、何十倍も怖い。
だって、視界のすぐ脇には白い波。
諸手を少しでも放せば、私はすぐにニュージーランドの海藻になるだろう。
怖い。痛い。トイレ行きたい。帰りたい。降りたい。

「キャーホー!!!」
「フー!!」
「イエーーー!!!」

他の船員たちは、暮れゆく夏の最後の煌めきを体いっぱいで感じて、声を発している。
怖い。怖い。怖い。
怖い、と、声にも出せなかった。思うだけで。
声を出すと、綱をむずと掴んだ手を、その拍子で離してしまうんじゃないかと思うくらいに、恐ろしかった。

私はついに、そうしてはいけないと思っていたのに
「ストーーーーップ!!!」
と、叫んでしまった。

きっと顔はゆでだこのように赤く、くしゃくしゃの新聞紙よりももっとくしゃくしゃだったろう。
尿意を我慢していたから、それこそたこのようにくねくねして、しゃくり上げるように泣いてしまった。
「Oh,my dear...」
おじさんがゆっくりとボートを止めてくれた。
構わず日本語で「ごわがっだよ〜」とさらに大泣きした。

8歳も歳下の男の子に、「よく耐えたね、僕もはじめての時は泣いたよ」と慰められた。
あたたかくて、ありがたくて、でも、惨めで、情けなくて、また輪をかけて泣いた。

船旅を、恐らく想定よりもずいぶん早く終わらせてしまったことに申し訳ない気持ちはもちろんあった。
けれど、それよりも、なによりも、もう。
船から降りて、「アイムソーリー!」と口早に、トイレに走り入った。
一息ついて、安堵感でまた泣けた。
ごめんなさい、を言い尽くせる言語力もなくて、また涙が出た。
ボートは怖かったし二度と乗りたくないが、あんなのに乗ったのは初めてだったし、普段遠くから見ていたランギトト島を間近に見れて良かったから、後悔はしていない。
これが一番、心に残った思い出です。




🌾   🌾   🌾   🌾   🌾

ニュージーランドへの留学を終えて帰ってきたあと、すぐに春休みが始まった。
国語の先生が「ニュージーランドで一番心に残ったこと」について書く作文を、春休みの宿題として私たちに課した。


留学と言っても、私たちがそこで暮らしたのはたった2ヶ月弱の短い期間。
クラス全員ではるばるニュージーランドに飛び立ち、平日は地元の学校に通い、北島・オークランド近郊を中心とした一般市民宅にホームステイをするプログラムだ。

しかし、短い期間とは言えども、凝縮された挫折と寂しさ、喜びと悲しみと驚きを多感な16歳の2ヶ月間にめいっぱい浴びたことは、振り返って見ても貴重でかけがえのない経験だった。
私は、その期間でも、とりわけ「一番心に残ったこと」、つまり上記のことを、春休み中にサラリと書き終えた。
もっと文章が短く、淡々と書いていたと思う。
恐らく、「海行った、船乗った、怖かった、おしっこ行きたかった、泣いた、でも良かった。」と、事実のみを。
とにかくサラッと書いて、あとの春休みの期間は現地でカロリーの高いクッキー等を摂取したことにより、ぶくぶくになったお腹周りについて悩む時間に充てた。




「みなさん、春休みは楽しめましたか?
書いてきてくれた作文は、私が一つずつ、何日かに分けて音読をします。
しっかり耳を傾けてください。
一人一人のニュージーランドでの思い出をみんなで共有して、さらに思い出の色を深めましょう。」

クラス替えが無かった私たちは、進級の実感のないまま新しい学年にあがった。
はじめての国語の授業は、先生による作文の音読がされるとのことで、教室がにわかに色めき立った。

まさか作文が読みあげられるだなんて!
そんなの聞いてないんだけど!

でも、授業中に先生が読んでるのを聞いてるだけなら楽だし、みんなの作文を聞けるなら面白いな。
自分が書いた作文のことなんて忘れて、そう呑気に考えていた。


先生が裏向きに重なった原稿用紙の山からランダムに一作を引き出し、順に作文のタイトルと氏名が読み上げられる。
クラスメイトたちのさまざまな思い出が、先生のよく通る声、ちょうど良い早さで、教室に響きわたる。

「ホストファミリーとケンカして仲直りこと」
「ホッケーの試合を見に行ったこと」
「迷子になってピンチだったけど、英語で切り抜けられたこと」
「日本料理を振る舞って、喜んでもらったこと」

和んだりハラハラしたり、みんなのエピソードが一つずつきらめいていた。

「ナンパについて行ったら、車で山奥に連れて行かれたこと」
「道を歩いていたら、人種差別的な罵倒を受けたこと」

などと、決して「良いこと」とは言えないこともあったけど、みんな一人一人が、一人一人の思い出に耳を傾けハッとする、忘れられない美しい時間だった。

無事に再び机を並べて学ぶことに感慨を得るような、しみじみとした喜びに溢れる教室。
先生が一つ読み終わるたびに、作文の感想を言ってくれるのも良かったし、読まれたクラスメイトたちが皆少し誇らしげに顔を綻ばせるのも、あたたかかった。



しかし、新しい学年が始まって3回目ぐらいの国語の時間だったろうか。
30人を上回るクラスメイトの作文たちは、回を重ねれば重ねるほど濃厚感や色鮮やかさを増し、帰ってきたばかりなのにニュージーランドを既に懐かしく思わせるものばかりのように感じた。

最初は読まれるのを今か今かと待っていたのに、未だに読まれていない「私の作文」の内容が、今更恥ずかしくてたまらなくなった。

私はこの作文に、よりによって「海行った、船乗った、怖かった、おしっこ行きたかった、泣いた、でも良かった。」を書いた。
みんなの思い出に比べれば、なんて独りよがりで主観的な話だろうと情けなくなった。
みんな、もっといいこと書いてるのに。
もっと、ふさわしい思い出があっただろうに。

なんだよ、もっとあっただろうに。
なんでこんなこと書いたんだろう。

何百回も、自分のことを頭の中でぼこぼこにした。
先生に再提出を申し出たい気持ちになった。


「ニュージーランドの海上で」
            〇〇 〇〇

そんな恥ずかしく思う気持ちも虚しく、先生は私の書いた作文のタイトルと私の名前を読み上げた。
先生を直視することもできずに、ただただじっと机を見つめることしかできずに静止した。


先生が読んでいる途中、先生の感情のこもった読み方も相まってか、よほど尿意の臨場感が表現されていたのか、予想外のことだったのだけど、クラスメイトが何度か大笑いをした。
笑われた。

なのに。

笑われたことは、本当なら恥ずかしくってたまらないはずなのに、笑ってもらえたことがなんだかとても嬉しくて、読み終えられたあとは晴々とした気持ちだった。

さらに、授業が終わって、友人が声をかけてくれた。
「笹ちゃん、元気になったんだね。そんなに激しいボートに乗れるようになるなんて、ほんとによかった。」

この作文を母に見せたら、少し目を潤ませながら「すごいところで、すごい体験をしてきたんだなあ。」と、しみじみと呟いた。

私はこの留学の半年前に、先天性の心臓病の手術を終えたばかりだった。
軽度の、とは言え、心臓なのでそれなりに大きな手術だった。
私は当時、常にひたすら自分のことしか考えられなかったけれど、事情を知っていた数人の友人も、近くで私の様子を見守ってくれていた両親も、半年前まで管に繋がれて術後の痛みに耐えていたこの人が、まさかニュージーランドの海原でジェットボートに乗るまで回復したとは思わなかったのだろう。
私の背景に想いを馳せてくれたことが、本当に本当に、しみじみと嬉しかった。
忘れたくないな、忘れないぞ!って思った。
クラスメイトが笑ってくれたのを嬉しく思ったのも、友人や両親が声をかけてくれたのも。

でも、きっと、忘れてしまうの。
恐らく、簡単に。

私は、なんで書くんだろう。
なんでなにかを残そうとするんだろう。
その問いの私の答えは、いつも、「忘れたくないから」だ。

私は、なんで読むんだろう。
きっと、「書く」だけでは、まだ忘れる可能性が高いからだ。

読んで、交わして、巡って、考えて、私は私に傷をつけるように刻み込んでいる。
絶対に忘れんなよ!って。

「あの時、ボートに乗って良かった。」
それは、帰国後にすぐに思った。

「海上での思い出を作文にして良かった。」
一方、こちらは15年も経った今、今さら思う。
だってもう、ニュージーランドで気に入っていたお菓子も、住んでいた街の名前も思い出せないのに、作文を書いたことでこの出来事を思い出せたと思うから。
ニュージーランドで「ごわがっだ〜」と泣いて叫んだ声を、やっと大海原を経て、たくさんの答えや意味とともに私の掌で捕まえた。

私は私のために書いて読んで、かつて嬉しく感じた時のように、誰かに想いを馳せて伝えていきたいって思った。



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