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『学習する社会』#2 1.イノベーションから学習へ 1.1「当たり前」について

1.イノベーションから学習へ

久しぶりに東京から次男が帰ってくるという。夜行バスが到着した早朝、地下鉄に乗ると連絡をしてきた。最寄り駅の前面道路はそれほど広くなく一方通行で、通行方向に向かって右側に駅舎、左側にコンビニなどが並んでいる。そのため送迎の車は道路の右側に停車しているのが常であった。しかしその日の朝は道路の左側に停車している車があった。右側停車と左側停車が混在すると停車できる台数が少なくなるので迷惑であった。しかし、日本では車が左側に停車することが当たり前である。文句をいうこともできず、少し離れた場所に停車し、息子を待った。(かなり以前の実話であるが、現在もその駅前では右側停車で送迎が行われている。)

1.1 「当たり前」について

最寄り駅の局所的な状況に合わせて車を右側に停車するのは、その駅に送迎などで来る限られた人々である。左側通行の日本では左側に停車することが当たり前であるが、その限られた人々にとってそこで右側に停車することは当たり前であった。日頃、この駅に送迎に来る人たちも他では左側に停車しているだろうし、ここでも当初は左側に停車していたかもしれない。限られた人にとって当たり前なことが局所的であることは、まさに当たり前=当然=である。しかし、日常生活の中では、当たり前を前提にした何気ない行為が大半であり、その当たり前がどれほど局所的であるかをいちいち確認することはない。

「当たり前」は変わる

当たり前には、限られた人々のように局所的なものだけでなく、限られた時期のように局時的なものもある。学生が講義の終わりに「お疲れ様でした」と教員に声をかけることは珍しくなくなり、最近では、私も当たり前のようにそれを受け入れている。しかし、学生から始めてその言葉を投げかけられたときには、驚いたものである。語義的には、「お疲れ様」は上のものが下のものに使う表現とされる(異論も存在している)が、平成17年度「国語に関する世論調査」の結果では、目上の者に「お疲れ様」を使う人は69.2%に上っている。「お疲れ様」は、目上も目下も関係なく使う表現として、すでに定着している。

もちろん当たり前の局所性や局時性は言葉だけではない。名古屋地域で午前中に喫茶店に入ってコーヒーなどを注文すると、モーニングサービスと称してトーストやおにぎりなどの朝食が付いてくる。しかし、一般的には「モーニングセット」のように注文しなければ、コーヒーしか飲むことはできない。以前は、喫茶店にその店専用のマッチがおいてあることは当たり前であったが、最近では喫茶店のマッチを見かけることは少なくなった。日本におけるマッチの消費量は、1970年を100とすれば、1979年には48.8と半分以下になり、1992年には9.7と一割以下と減少の一途をたどっている(日本燐寸工業会のデータ)。

30年前、携帯電話を使っている人はほとんどいなかった。家を出てしまえば連絡を取れなくなる当時、友人と待ち合わせをする時には時間と場所をしっかりと決めておくのが当たり前であった。しかし、現在(21世紀に入ってから)は誰もがスマホや携帯電話を持っており、おおよその時間と場所を決めておけば、近くに来た時にいつでも詳細を打ち合わせできる。知らない場所でも、メールで地図を送ることもできるし、自分のいるところから見える景色を写真や動画で撮影して送ることもできる。極端な間違いさえない限り、待ち合わせで会えないことはなくなっている。待ち合わせ場所などを詳細に決めないことが今や当たり前である。

異 ⇔ 常

当たり前ということは強固なものであると日常的には思っているが、意外に局所的であったり、局時的であったりする。もちろん、局所的あるいは局時的な当たり前は広域化あるいは普遍化することがあり、広域的あるいは普遍的に当たり前と思われていることも局所化あるいは局時化することがある。いうまでもなく、局所・広域、局時・普遍は相対的な表現であって、「~化」は変化の方向を示しているにすぎない。当たり前という「」である状況は最初から「」であったわけではない。最初は「」なものとして扱われたモノやコトが「」に変化したのである。

もちろん「常から異」への変化もあるが、ここで「異から常」への変化に注目すると、それは新たなモノやコトが流行し、普及して社会が変化する姿そのものである。これこそがイノベーションの姿とも考えられる。「異」と「常」の間の変遷としてイノベーションをとらえれば、「異⇒常」という普及ないし一般化と同様に「常⇒異」という衰退あるいは陳腐化もイノベーション研究の視野に治められることになる。

イノベーションという見方

イノベーションという概念は、シュンペーター(J. A. Schumpeter, 1934)
が、次の五類型で説明した新結合の概念(経済発展の駆動力)に由来すると言われている。

  1. 新しい財貨の生産

  2. 新しい生産方法の導入

  3. 新しい販路の開拓

  4. 新しい供給源の獲得

  5. 新しい組織の実現

その後、この概念は経済学だけでなく、経営学や組織論あるいは社会学など様々な分野で使われるようになり、多義化してきた。例えば、マンスフィールド(E. Mansfield, 1968)は計量経済学の立場から、次のように述べて変化の社会への普及を重視している。

ある発明がはじめて実用化されたとき、それは技術革新(イノベーション)と呼ばれる。…発明と技術革新(イノベーション)との区別が明瞭であるかどうかにかかわらず、技術革新は、ある発明が十分な評価を受け、また十分に利用されるに至る過程の中の重要な段階に他ならない。

マンスフィールド(1968)、訳書p.95、( )内筆者。

他方、経営学の立場からドラッカー(P. F. Drucker, 1985)は次のように述べて、イノベーションを個別企業の活動と強く結びつけている。

企業者たる者は、イノベーションを行わなければならない。イノベーションこそ、企業家に特有の道具である。イノベーションとは、資源に対し、富を創造する新たな能力を付与する者である。資源を真の資源たらしめるものが、イノベーションである。

ドラッカー(1985)、訳書p.47。

また、クリステンセン(C. M. Christensen, 1997)は次のように述べて、技術の変化すべてをイノベーションと呼び、経済学的な普及の視点とも、経営学的な個別企業の変化の視点とも異なる視点を提示している。

本書でいう技術とは、組織が労働力、資本、原材料、情報を、価値の高い製品やサービスに変えるプロセスを意味する。すべての企業には技術がある。…イノベーションとは、これらの技術の変化を意味する。

クリステンセン(1997)、訳書p.6。

「イノベーション」概念について

最近ではイノベーションという用語を明確に定義せずに使用することも多く、新製品開発や技術開発と同じ意味で使用されたり、個別企業の変化として扱われたりすることも多い。しかし、この概念の歴史的変遷を振り返る限り、イノベーションは本質的には社会的な営みであり、社会の水準で知識を生み、活用する営みである(一橋大学イノベーションセンター編(2001)、pp.10-18)。イノベーションが知識を生み・活用するという営みであるならば、イノベーションを知識の変化過程、言い換えれば学びあるいは学習の過程としてとらえることも可能となる。

イノベーションという見方は「異⇒常」を扱うが、社会的に見れば「異⇒常」の変化があれば、その背後では別の「常⇒異」という変化が進んでいる。学習する社会の見方であれば、「異⇒常」という普及の側面だけでなく、「常⇒異」という衰退の側面も同時に把握できる。その意味で、学習する社会という視角はイノベーションという視角より射程が広い。「学習する社会」という見方の重要性がここにある。

今回の文献リスト(掲出順)

  1. 日本燐寸工業会HP『マッチの世界-マッチの歴史-』(https://match.or.jp/museum/history/、2024年5月28日確認)

  2. Schumpeter, Joseph A. (1934) The Theory of Economic Development: An Inquiry into Profits, Capital, Credit, Interest, and the Business Cycle, Harvard University Press. (塩野谷祐一/中山伊知郎/東畑精一訳 (1977) 『経済発展の理論:企業者利潤・資本・信用・利子および景気の回転に関する一研究』(上下巻)岩波書店)

  3. Mansfield, Edwin (1968) Industrial Research and Technological Innovation, W. W. Norton & Company. (村上泰亮/高島忠訳 (1972)『技術革新と研究開発』日本経済新聞社)

  4. Drucker, Peter F. (1985), Innovation and entrepreneurship, Harper & Row. (小林宏治監訳、上田惇生/佐々木実智男訳(1985)『イノベーションと企業家精神:実践と原理』ダイヤモンド社)

  5. Christensen, Clayton M. (1997), The innovator's dilemma, Harvard Business Press. (伊豆原弓訳 (2000)『イノベーションのジレンマ : 技術革新が巨大企業を滅ぼすとき』翔泳社)

  6. 一橋大学イノベーションセンター編(2001)『イノベーション・マネジメント入門』日本経済新聞社

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