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一杯のコーヒー

 仕事に行き詰ったとき、私は一杯のコーヒーを淹れる。

 普段はコンビニで売っている5パック300円程度のドリップパックだが、ローマ字一つタイピングできないレベルの行き詰まりは、これではどうにもならない。
 事務所にいる人間に支給されるスチールデスクの引き出しから、100均で買った白い蓋つきの収納ボックスを取り出す。鳴り続ける着信音や「おそれいります」の言葉を尻目に、給湯室に入って一息。深い深呼吸と共に、シンクの上にボックスを置いた。
 ウォーターサーバーはあるが、今は湯を沸かしたい気分。ヤカン片手に気配を消しつつ、給湯室の入り口にあるウォーターサーバーから「山の雪解け天然水」なる水を拝借する。
 会社のミニキッチン程度に火力は求めていないが、最大の火力で湯を沸かすのは、誰かが来る前に退散したいからだ。
(たかがコーヒー淹れるくらいで……)
 自分ではそう思っても、この行為が“なにを呑気に”の一言で片づけられるのが怖い。この行為は私にとっては必要だけど、他人にとってはそうではない。そのことに向かいきれないなら、知られない方がずっと良い。
「急いで豆を挽かないと」
 最近、気づけば、ぼぅっとすることが増えた。足が生えた意識という生命体が、脳みそから何度も脱走してしまっている。ぐるっと全身を駆け回り、考える機能なんて働かなさそうな掌で膝を抱えて座っているのだろう。
 今もそうで、プラスチックの蓋を片手に何をするかを忘れてしまっている。今日は少し、重症のようだ。
 ボックスにはコーヒー豆が入ったキャニスターと三角錐のドリッパー、専用のフィルターに手動のコーヒーミルがある。お気に入りの豆をミルに入れ、ハンドルを回してゴリゴリ。ゴリゴリ……、ゴリゴリ……。

 企画が通らなくなった。入社して三年目、いよいよキャリアを積んでいくというタイミングでこれだ。原因を想像しても明確な答えは出ない。新人というレッテルが無くなってステージの難易度が上がったから? 上司が変わったことで判断基準も変わったから? 同僚の企画がどんどん採用される焦りから? やみくもに手をつけて、結局すべてが浅いから? 
 きっとどれも原因の中に含まれている。私という個に全て詰め込まれていて、それがとっ散らかったままだから先に進まないのだ。
(あーー、いやだ。人生何もかも削れてしまえばいいのに)
 けれど、挽きすぎは味が濃くなるので良くない。この豆は柑橘の風味がおいしいから、エスプレッソのような濃さにはしたくなかった。
 ヤカンの細い口から、勢いよく湯気が噴き出す。丁度良いタイミング。セットしたフィルターに豆を入れ、少しだけ湯を入れて豆を蒸らす。コーヒーの香りがする。芳醇なとか、いろんな言い方があるが、私にとってはただのコーヒーの香り。けれど、私を給湯室ごとやんわり包み込むこの香りは、強張った何かをほぐしてくれる力がある。
 蒸れた豆に湯をまわしかける。少しづつ、細かい泡がぷくっとふくらんでいく。今この瞬間、ここ一週間の中で一番丁寧に人生を生きている気がしている。この一杯を淹れていると、少しだけ自分のことを信じられるのだ。
 茶渋だらけだったマグカップも、コーヒーがあれば気にならない。席に戻る前に一口、すっと舌に触れる苦みを転がして、ほっと心を緩ませた。
「は——……、複雑な味」
 それなのに、口角が上がる。あと三時間、あと少し頑張ったら、ラーメンでも食べて帰ろう。そんな小さな希望を、一杯のコーヒーが与えてくれた。


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