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4-02「雨の夜、濡れた鱗のドラゴンが」

7人の読書好きによる、連想ゲームふう作文企画「杣道(そまみち)」。 週替わりのリレー形式で文章を執筆します。前回は藤本一郎の「唸れ!ドラゴンブレスショットガン!」でした。

【杣道に関して】
https://note.com/somamichi_center/n/nade6c4e8b18e

【前回までの杣道】

4-01「唸れ!ドラゴンブレスショットガン!」/藤本一郎
3-08「『作者』を編集する ―J.G.バラードの『自伝三部作』」/沖田正誤_
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"Les villes changent aussi, pas seulement le gens."
ドミニク・ゴンザレス=フォルステル ”Parc Central”より

あなたは何処かしらの都市に生きていて、普通に自らの仕事をして、普通に食事をして、普通に寝る、そんな何でもない日々を過ごしていた時に急に、ラテックス製のボンテージの衣装が手に入ったら?服から漂うエロティシズムに興奮する?それともサイズ感や指紋に気を使う?オリヴィエ・アサイヤスの映画「イルマ・ヴェップ」はその日常と反日常の隙間をそぞろ歩く作品である。
主人公で女優のマギー・チャン(本名で出演している)はある日、サイレント時代の映画「レ・ヴァンピール 吸血ギャング団」のリメイク作品の主役の女盗賊のオファーを受けて香港から遥々、パリにやってくる。そのリメイク映画の監督として「大人はわかってくれない」のジャン=ピエール・レオ扮するルネ、しかしそのルネは良くも悪くも「作家タイプ」の映画監督でありヌーヴェルバーグを引きずっている落ち目の監督で、チャンは彼の感覚的な言葉に戸惑いながらも撮影が開始される。そこで登場するのがボンテージのラバーの衣装である。その衣装係は「ドラッグを売っているらしい」など何かと悪い噂のあるゾエ、ゾエはチャンに性的な意味合いも含めて興味を示し色々と世話をしてくれるが、それ以外のスタッフとはいがみ合い、暴言が耐えない。何シーンか撮影後、試写を行ったが内容に満足しなかったのか監督は捨て台詞を吐いた後、失踪。残ったスタッフは怒りにも似た戸惑いを感じながらも違う監督(ルオの友人とのことだがこちらも落ち目)によって撮影が再開する。だが新たな監督はチャンの「国籍」が気入らず、チャンではなくフランス人の女性に主役を変更する。そんな映画の「内輪揉め」に巻き込まれ役を失ったチャンをゾエはクラブに誘い出すが、チャンは「噂」のことも気にしつつもその「いざこざ」に疲れ果てた様子で誘いを断る。場面が変わり、無事に「レ・ヴァンピール 吸血ギャング団」のリメーク作品はクランプアップしたそうで試写会となった。試写会には出演はしていないもののチャンを招待したが、チャン自身はリドリー・スコットの映画に出演するためにその朝、ニューヨークに旅立ったので参加はできないとの連絡が入る。取り残されたフランス人たちによる試写会、しかもその作品は実はルネが前日の夜に勝手に編集したという。果たしてどのような作品が上映されるのか…。

いわゆる映画の裏側、フェリーニの「8 1/2」やトリュフォーの「アメリカの夜」、アルトマンの「ザ・プレイヤー」等々でも描かれたいわゆる、映画業界の群像劇だがこの作品の特殊なところとして、「日常と非日常の融解」が挙げられる。これはアサイヤス作品の特徴に一つで、他の作品でもSMやレイヴ等のいわば日常とは違った(陰のある)世界が出てくることが描かれることが多い。今回の「イルマ・ヴェップ」では、まず主役のみ「マギー・チャン」という本名で映画に出演しているところも挙げられる。アサイヤス曰く、この設定は重要だったそうで、チャンが本名で演じることによって「イルマ・ヴェップ」撮影の際に起きていたこと(会話が不自由にできない)を収める、つまり、カメラ「内」とカメラ「外」が同時進行していく。また鑑賞者は「役者」を見ているのか「本人」を見ているのか立ち位置がわからなくなる、また、チャンの衣装である「ボンテージの衣装」だが、その「衣装」をチャンは「映画内」だけではなく、実際に着用して「映画外」でも、実際に着用して窃盗を行う。ここでも虚構と現実の融解が起こっており、まとめると、映画「イルマ・ヴェップ」の中では「フレームを超えた、我々の日常と映画の融解」と「映画の中で『映画』といった虚構と日常の融解」を同時に行なっているといえよう。そもそもSMにしろ窃盗にしろ、ある種の「日常生活」の先にあるもので、そもそもそれらを「非日常」といった隔たりは勝手に我々が設けているだけなのかと意識させられる。またそれは「即興撮影」を行なったヌーヴェルヴァーグも同じことがいえ、つまりカメラの中、フレーミングされた主人公ないしは登場人物のみが「映画」という虚構であり、背景の人々、そしてパリは日常であり、またそれを撮影しているという背景(つまりカメラの背後にいるスタッフ)、「映画を撮る」という行為自体も日常の一部と言えないだろうが。すると「非日常」というのは、すなわち「行為」が終えた後のタバコの煙の如く、またそれはマギーが雨の中、屋上から盗んだ首飾りを手から放ち、雨粒と共に消えていくように儚いものなのだろう。

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「パリはわれらのもの」より

ところでチャンが建物の屋根を歩くシーンからジャック・リヴェットの「パリはわれらのもの」という映画を単純に思い出した。ヌーヴェルヴァーグを代表し、またゴダールはじめ関係者も多く出演している映画もストーリーは芝居の裏側が舞台の作品となっており、「芝居」が芝居となり、それが現実へと侵食するといった似たようなストーリーなのだがそれ以上に、「パリは誰のものではない "Paris n'appartient à personne”」と詩人シャルル・ペギーの言葉に注目したい。当時ヌーヴェルヴァーグの監督たちは当時、まさに「パリはわれらのもの」の如く扱っていたからだ。その「パリらしい」、「フランス映画らしい」斬新さが時間を経つにつれ形骸化し、結局はルネの代用の監督のような排外的な思考を生み出したのだろうか。それは他のクルーがチャンへの接し方からも明らかで、チャン自身はあくまでも「仕事」として作品や「フランス映画らしさ」を理解をしようと努めているが、撮影クルー達はチャンを「外見」でしか理解・判断しない。つまりはチャンの前景とも言える「ステレオタイプ」でしかチャンを見ておらず、その結果が主役交代であって、またチャンがリドリー・スコットといった世界的な監督の元に旅立つと、パリに残されていたのは旧態依然の作品(とは言え個性的ではあるが)と人々が鮮明に浮き出てしまった。ところで、そもそもパリという美しい歴史的な街並みはローマを手本に作られたいわば虚構であって、元々パリにあったヴァナキュラーな建築とは違った街と言える。それでは「パリらしさ」とはなんであろうか。そして、「マギー・チャン」とはどのような人物なのだろうか。

ヴィム・ヴェンダースは「都市とモードのヴィデオノート」の冒頭、このように語っている
「君はどこに住もうと、どんな仕事をし、なにを話そうと、何を食べ、何を着ようと、どんなイメージを見ようと、どう生きようと、どんな君も君だ、独自性、人の、モノの、場所の―独自性、身震いする、嫌な言葉だ、安らぎや満足の響きが隠れている独自性、自分の場、自分の価値を問い自分たちを似せる、それが独自性か?創った自分たちの一致が?自分たちとは誰なのか?ぼくらは都市に生き、都市が生きて、時とともに都市から都市へ国から国へ動き、言葉や習慣が変わり考え方や服が変わる。全てを変え、全てが変わっていく―」

マギー・チャンは世界を、映画を、現実を、歴史を垣根関係なく飛び回る。それはさながら、ドラゴンのように。

※冒頭の写真は「イルマ・ヴェップ」より

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次週は4/18(日)更新予定。お楽しみに!

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