ノスタルジーに溺れながら大学生活を振り返る

私は花粉症である。

突然気温が上がり、花粉が飛沫し始めると、毎年思うことがある。鼻水をすすりすぎて頭がボーッとし、身体が気だるくなるのに加え、あの生ぬるい、なんとも言えない温度の空気に包まれると、今までの思い出が頭の中を走馬燈のように駆け巡り始める。これによって「あぁ、また季節が一周したのか」ということを、毎年思わされるのである。

今年もその季節がやってきた。耳元のイヤホンにはスーパーカーが流れている。一年前とは特に代わり映えのしない自分を客観的に眺め、この一年間何をしていたんだか・・・という感傷に浸るのは毎春の日課 (年課?) であるが、今年はいつもとは違うことがある。

この春をもって大学を卒業し、社会に出るということだ。

いままで、今ある環境を卒業し、次のステージに進むという場面を悲しんだことはあまりなかった。中学も高校も、そこまで煌びやかで楽しいものではなかったためか、卒業も寂しくはなく、何か変われるかもしれない、次こそ理想の自分になれるかもしれない、などと、新しく始まる次のステージに淡い期待を抱いていた。

そんな私が送った大学生活は、あまりにも幸せなものだった。

少し遅めだが確かに青春に出会ってしまったし、新しい自分をたくさん見つけてしまった。
楽しかったことも辛かったことも、すべてが輝いている。

社会に放り出される不安、というものも勿論あるが、単純にこの大学生活が終わってしまう寂しさ、子どもでいられなくなる怖さに襲われ、例年のものとはレベルが違いすぎるノスタルジーに殺されかけた。

そこで、幸せだった4年間のすべてを、文章にしようと思った。大切な思い出を、心の中だけで、無形のままで残しておくのは、私にとってとても怖いことである。だからすぐ写真をとるし、SNSに思い出を記す。戻りたいと思ったとき、なにか形として残しておくことで、すぐに戻ってこられるような気がするのだ。

またこちらは主な目的ではないが、私には内向的な人間特有の変な自己顕示欲というものがあり、自分の部屋にあるノートに黙々と書き記すよりも、こういう、なんとなく人目につきうるところに放り投げておくほうが、なんとなく気持ち良い、というところもある。

冗長な文章は好きじゃないが、私の書く文章は冗長だ。

できるだけ長くならないように、ジャンル毎に書き記していこうと思う。が、きっと、かなり長くなる。これは私の人生の、思い出のセーブポイントのようなものなので、ご容赦願いたい。

ここまで読んで、このnoteの長さを悟り、ここから先は1つも読まずに帰るも良し、下記の目次から、気の向くところだけ選んで読むも良し。ただ、恋愛のところだけ読んで帰るのは、ご遠慮願いたい。死ぬほど恥ずかしいからである。

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①勉強をする

まず前提として私は、地方の国立大学の文学部に通っている。

高校の3年間を部活に捧げた私は、センター試験E判定から第1志望であった今の大学に突っ込んだ。結果、下から2番目の成績で合格。受験勉強は血反吐を吐くほどしたのでそれはそれは嬉しかった (血反吐は吐いていない)。

だがしかし、そんなギリギリで合格したのでそりゃまぁ、勉強についていけなかった。特に英語。みんなが高校3年間かけて築いてきた基礎部分がかなり手抜き工事であったため、ほぼ公開処刑な英語プレゼンをして成績Dをとったり、毎週授業前に3時間かけて予習していた授業でCしかとれなかったりしていた。それで少し、というかかなり心が折れて、学校を辞めたいと親に相談したこともあった。今思えば本当に大したことないことで悩んでいたなぁと思う。

挫折から這い上がり、1年生のうちにそこそこの成績をとった私は、念願叶って心理学専攻の学生になることができた。

心理学の勉強は本当に楽しかった。

心理学研究室では、ほとんど「卒業するため」の授業が行われた。認知心理学の分野であったため、学部を卒業した先アカデミックの道に進む学部生が少ないからであろうか(臨床心理学の場合、臨床心理の資格取得のための大学院進学をする人が多い。)、論文を書く練習のような研究レポートと、実験計画を立てる練習のような実験演習、データ分析のための統計学など、2年生のうちから卒業論文をかくことだけを視野に勉強していたような感覚だった。

心理学研究室は私の所属する学部の中でも花形の研究室であったが、その分(文系の基準では)忙しいところだった。2年生の頃は毎週の実験レポート提出、3年生になれば毎週のように演習発表があり、心理学研究室での日々は目まぐるしく過ぎていった。
実験レポートが木曜日の提出であったため、毎週水曜日は徹夜するのがデフォルトだった。必然的に、木曜日の午前の授業は犠牲になる。他科目の授業だったので尚更だ。水曜日から木曜日の3限にかけては、心理研の者は皆限界であった。ハーゲンダッツを通貨に、完成した実験データを他者から購入する者もいたという。

研究室の同期にも恵まれた。皆、良い感じに真面目で、良い感じの意識の高さ (低さ・・・?) で、良い感じの距離感で、良い感じに優しい人たちだった。

よく研究室に集まって、お菓子をつまみながら論文を書いた。研究室にお菓子を献上する者は、それはそれはものすごく賞賛された。スマブラがすごく強い人の家に集まって、スマブラでボコボコにされながら、趣味でカレー作りをしている人の手作りカレーを皆で食べたりもした。心理学専攻の学生たちで行う人狼ゲームは、すごく白熱した。

卒業論文では、「かわいい」をテーマに研究を行った。
結果としては面白い研究になったと我ながら思うのだが、要約すると、ただでさえ謎の多い「かわいい」の分野に更なる謎を残した、といったところである。

後に記述する就職活動を始める際、私は大学院への進学とかなり悩んだ。心理学で院進することは、そのほとんどは臨床系の心理職(カウンセラー)か、研究職かに分けられる。
私は、大学の勉強は自分には向いていないと思った。何か一つの分野に夢中になり、結果を出すために根気強く研究を重ねていく、その当たり前とも言える一連の流れが、私には無理なことだと思った。飽き性であるし、色んなことに手を出したいと思ってしまう。オタクになりきれないオタク、といったところであろうか。大学院へ進んで勉強をしても、自分が苦しくなるだけだと思った。
また、国家資格をとってカウンセラーになることも考えたが、今の自分のコミュニケーション能力とメンタルでは、誰かの心をサポートすることなど到底不可能だと思った。
そうして私は、大学での勉強を4年間でやめ、就職することを決めた。

心理学は、今後人間と関わり続ける以上、必ず生きてくる学問であると思う。とっかかりやすく、人気の学問であるから本もたくさん出版されているし、私はこれからも心理学と触れ続けていたいなと、今は思っている。


②バンドをする

大学4年間、私は軽音楽の部活に所属していた。所謂「バンドサークル」である。
私の所属していたサークルは大学公認の「部活」なのだが、私には私なりの定義があり、これ以降はサークルと呼ばせていただく。

昔から音楽は好きで、ずっとクラシックの界隈にいたが、中学生のときにBUMP OF CHICKENとかRADWIMPSとか、王道と呼べるところらへんのアーティストに影響を受けてからというもの、バンドへの憧れはかなりあった。

なんとなく、「大学生になったら私はバンドをする」と思っていて、新入生歓迎の時期もなんとなくバンドサークルしか見なかった。

とはいえちょうど新歓の時期に色々なことが重なり、精神を削られていた上に大学にもあまり来られなかった私は、本当に適当にサークルを決めた。今思えば本当に運が良い。この集団との出会いは、私にとって今までにないほどの運命の出会いであったと思う。


音楽をやっていたとはいえバンドをするのは初めて。楽器はエレキベースを選んだ。初心者でベースを選ぶのもなんか変だよなとは思うが、昔からベースが好きだった。バンドでベースをやることは、私の夢だったのである。

だかしかしここでもまた、「ついていけない」という思いをすることになる。周りには引くほど楽器が上手な経験者の方々と、化け物レベルに素質のある初心者の方々。エベレスト並に高い私のプライドは、ズタズタにされることになる。

しかしまぁ私はかなり根性がある方であるし、それが長年憧れていたこととなると、苦しみながらも楽しく頑張れた。引くほど上手い方々にアドバイスを乞い、初心者同士で励まし合いながら、確実に成長した。

とまぁ、意識高い感じで練習を頑張ってきたのであるが、軽音楽を4年間やってきて思ったのは、なんとなくフラっと、とか、楽しいから、とか、その場のノリで自由に、とか、そういう軽いノリでやれるところが、軽音楽の良いところだなぁということだ。勿論ステージ上で気持ち良くなるには、陽の当たらないところでの地道な努力が必要なのだが、志が高くない人にもとっかかりやすい音楽であるし、ステージ上での気持ち良くなり方も自由度が高い。私は軽音楽のそういう柔軟なところが、とても好きだった。

そんな真面目な話はどうでもよくて、とにかくなんか青春だった。

音楽好きの人たちで集まって音楽を奏でる、という行為がすでに最高なのだが、「初心者」ではなく「一人前のベーシスト」として周りが自分を認めてくれるようになってからは、さらに楽しかった。壁にぶつかることすらも楽しかった。

コピーバンドやらオリジナルバンドやら、沢山バンドを組んだ。オリジナルバンドは、ボーカルの家に入り浸って編曲や録音に勤しんだ。市内の色々なライブハウスで自主的にライブ出演し、沢山の出会いがあった。打ち上げでお酒を飲んでよく最終電車を逃したが、ライブハウスもバンドマンも、私が想像していたほど怖いものではなかった。むしろ人間味がありすぎて、どの本番も刺激が多く面白かった。音楽で生きていこうとしている人たちは、それはそれは本当にかっこよかった。

3年生になるときに、新入生歓迎ライブで東京事変のコピーをしたことは今でも忘れられない。長年人前で演奏をしてきた私だが、あれが人生で初めて、ステージ上で「楽しい」と思えた演奏だった。

そして、沢山の音楽好きと出会う中で、自分が聴く音楽の幅も広がった。ここで出会った大切な音楽たちは、私に遅れてやってきた青春に常に寄り添い、彩りをくださった。

ここでは「バンド」というものに関することしか述べないが、このサークル集団との出会いや、新しい音楽との出会いは、私という人間を大きく変えることになった。その色々については、後ほど述べるすることとする。




③アルバイトをする

アルバイトは入学当初から卒業間際の現在まで、色々なところでした。アルバイトに関して特にノスタルジックな思い出はないのだが、頼まれると断ることのできない私がこの4年間でアルバイトに割いた時間はかなりのものであるため、述べざるを得ない。

大学に入学してすぐに始めた塾講師から、家庭教師、コールセンターの発信業務、イタリアンレストランのホール、巫女、担々麺屋のホールなど、職種は様々である。

その中で自分の得意なことや不得意なことが発見できたし、自分の行動特性も今までより深く観察できた。こんな人になりたいなという憧れも、反対に、こんな人とは生涯距離を取って生きていくべきだなという学びも、得ることができた。

アニメのセーラームーンを見てからずっと憧れていた巫女のアルバイトも、実行に移せたことはすごく嬉しかった (セーラーマーズに扮する火野レイの実家が神社で、放課後は巫女の仕事をしており、かなりの憧れがあった)。

そして何より、大体どこでも人に恵まれた。

自分には人間運があるんだな、と確信できたことは、現在、今後の人生に対する希望みたいなものを少しだけ持てるようになったことに、かなり貢献している。




④就職活動をする

小学生の頃から、大人になりたくなかった。なりたくなさすぎて、最早ならないのではないかと思っていた。20歳になる前に死ぬだろうと、うっすら思っていた。小学生の頃から。

そんななので、自分が就職活動をしているという現実をいまいち理解しきれないまま、約1年に渡る私の就職活動は終わった。

あまり、明るく前向きに生きていける方ではない。文学部に進学するくらいだから、生きる意味や理由なんかについては、考えすぎて悟りの境地に達している。最早生きることを義務として捉えている。生きていくために、周りの数少ない大切な人たちを喜ばせるために、働くということは自分にとって必要不可欠であった。

しかし、前向きに生きようと思えない人間にとっての就職活動は、とても苦しいものであった。目を輝かせながら夢を語る人間たちを、違う世界の住人として捉え、私はおまえらとは違うんだぞなどという、無意味なプライドによるかたい殻を作り、その中に閉じこもったまま外に出て戦っているような感覚だった。

しかし、弱者なりに社会に一矢報いたいという、私の心の中に根付いているある種の反骨精神のようなものに突き動かされ、後ろを向きながらも就職活動を続けた。何回か死のうと思ったが、そこまでの行動力も無かった。

就職活動を通してそういう苦い思いをしたのもあり、就職活動の分野でのビジネスを行う会社に内定承諾をした。

とはいえ別に、就活制度を変えたいとかそんなデカい夢はない。もう、なんとなく生きていこうと思っている。メンタルは強くはないくせに、成長のためなら自分をとことん追い込むクセがあり、自分にとってはかなり辛い仕事を選んだのだが、全然もう、無理だったらすぐ逃げようと思っている。

まぁ今、「社会人になるということが差し迫っている」というだけで、逃げ出したい気持ちでいっぱいである。もうほんとに、なんとなくやろう。自分の身は自分でしか守れないのである。




⑤恋愛をする

高校3年くらいまで、恋愛とはほぼ無縁であった。

いまより7~8kgは太っていて容姿も醜かったし、性格もこんな感じだし、運動神経も良くなかったから、だと推測している。

大学受験を機に激痩せし、化粧というチートを正当に使えるようになったことにより、人並みには恋愛とも縁のある生活になってきた。前提として私は異性愛者である。一時期は両性愛者なのかと悩んだこともあったのだが、ここでは詳しくは話さない。

大学生活で一番記憶に残る恋愛といえば、同じ大学の同じサークルで出会った同い年の男とのそれである。彼とは交際する前によく、深夜の街を2人で朝まで歩き回る、深夜徘徊というものをした。海辺まで歩いて、きのこ帝国を流しながらほろよいを飲んだり、たまたま見つけたデカい公園で、ベンチに座ってミスタードーナツを食べたりした。ハイカラな方々には理解に苦しむデートであろうが、私にはこれが魔法のように心地よかった。

彼は実に不思議な人間であった。その不思議さゆえか、そういう風に2人で過ごす時間が増えてからも、1年くらいは交際に至らないままだった。恐らく私は、彼のことを人間として好いていたのだが、私は今まで、所謂、恋に恋しているような状態でしか人を好きになったことがなかったので、彼への好意が恋愛感情とも捉えうるものであるということに気付くのには、時間がかかった。

彼は私の数倍は陰鬱でひねくれた人間であったが、根底には何か、ものすごい勢いで燃える炎のようなものを感じた。生きる上で私が諦めていた色々を、諦めず頑張っていて、なおかつギリギリのところでちゃんと結果も出していて、でも根本は漆黒のブラックホール、みたいな感じで、とにかく私は彼のことを心から尊敬している (半分悪口のようだが本当だ)。その (本人は否定するだろうが私から見れば) 立派すぎる人間性に引っ張られ、私は今も頑張ることが出来ているような気がする。

恋愛の話はどうも、別れというオチがないと綺麗に感じられないのだが、彼との関係は今もなお続いている。

時にはちゃんと恋人であるが大半は大親友であり、時にはライバルになり、弟にも兄にもなる、そして今後恐らく、いがみ合うこともあるのであろうが、どの側面も「人間」であるので、なんとなく大丈夫だと思う。




⑥友達ができる

何度か書かせてもらったが、私はこの4年間でかなり人に恵まれた。
この大学にきて良かったと思うことは、尊敬出来る人が多いことである。


授業で多くの時間を共にした、同じ心理学研究室の友人がいる。彼女は本当に、人間がよくできた人であった。初対面の人にも壁を作らず、全ての人間を、怖がることなく全力で愛することができるのである。

明るくて、バイタリティもあって、友達が本当に多くて、彼女とこんなひねくれ者の私が仲良くなれたことが、自分にも意味がわからなかった。でも、彼女に全力の愛を注がれると、私も好き!!となってしまう、そんな不思議な力が彼女にはあった。これから彼女に関わることになるであろう沢山の人々が、これからも彼女の愛によって幸せになるのだと思うと、関係のない私までホクホクしてしまうのである。


また、私にバンドをする機会を与えてくれた今のサークルも、私にとっては運命の出会いであった。

この集団はもうとにかく、陰鬱な人間の巣窟のような場所であった (褒め言葉である)。全員が音楽への愛が強いのは勿論、それぞれの人間がそれぞれの個性を発揮して、めちゃくちゃに自分らしく生きていた。

今まで人に嫌われないよう、相手の顔色を伺い、どんな振る舞いが正解か頭をフル稼働させ続けた結果自分を見失ってしまった私にとって、「自分」としてしか生きていない人間たちはあまりにもかっこよく、皆の個性を感じるたびに胸がワクワクした。「あなたも自分らしく生きていいんだよ」と、暗に言われているような気がして、私にはそれは難しいことであったが、それでも少し心が軽くなるような感じがした。就活を乗り越えることができたのも、自分らしく生きていいということを、ここにいる皆に教えてもらったからだと思う。

あと、ここで出会った友人たちとの遊びも最高であった。

夏に、今度やろうと言って買った線香花火を、結局夏には消費できず、真冬になった頃に集まって、深夜2時の公園でやるような人たちだ。

毎度バンド練習の終わりには、やっすいラーメン屋でラーメンに大量のニンニクをぶち込んで食べたり、誰かの家に集まって見たこともないようなボードゲームをしたり、夜景の見える山までドライブをしたりした。彼女が出来た者がいれば、家に集って手作りのカルボナーラを食べながら惚気話を聞き、失恋した者がいれば、またもや家に集ってすき焼きをつつきながら傷心を慰めた。1つ1つの時間には特に充実感はなく、非常に退屈なものであったのだが、振り返ってみるとそれらは、何物にも代えがたい幸福であったのだと気付く。

最近は、春からそれぞれの道へ進む友人たちと、離ればなれになってもたまには会おうな、おまえらが結婚したら一夜限りでバンドしような、などと、文字通りエモい会話をする日々である。

思えば私のノスタルジーは恐らく、このような大切な人たちの存在がトリガーとなっている。

性悪説を支持し、人間をあまり信用できない私であるが、なんだかんだいって人間が大好きなのだなと気付いた。


友達は本当に大切で、書き始めればキリがなくなってしまうので、ここらで終わらせておこうと思う。




⑦青春を彩った音楽たち 

※順不同

・OMOIDE IN MY HEAD / NUMBER GIRL
言わずとしれた名曲。本当にただただ名曲。この曲を再生することで、いつでもここに戻ってこられる。余談だが、先日再結成した彼らのライブへ行き、この曲を生で聴いた。青い風が駆け巡っていた。

・海と花束 / きのこ帝国
1音目のギターで涼しい風が全身を貫く。揺れる3拍子と轟音ギターで、目を閉じると深夜の海が浮かぶ。あまりに良い曲なので、再生するのに勇気がいる。

・宇宙飛行士への手紙 / BUMP OF CHICKEN
初めて聴いたのは中学生のとき。あの頃はこの曲で唄われている意味が、よくわからなかった。いつかわかるようになるはずだと思い続けてやっと、わかるようになる時がきた。少しは大人になったのであろう。

・cream soda / スーパーカー
なんかよくわからないけどめちゃくちゃ好きな曲。心にじんわりとくる。再生すると、よく晴れた日の大学の近くの海が目に浮かんで、戻りたくなってしまう。

・銀河鉄道の夜 / GOING STEADY
聴いていると身体が勝手に夜空を駆け抜け始める。

・駆け抜けて性春 / 銀杏BOYZ
聴いていると身体が勝手に

・小さな頃から / JUDY AND MARY
私が小さな頃から、車の中で流れていた曲。可愛らしくて芯のある、センチメンタルが詰まっている。後奏で必ず泣きそうになる。もしもギターが弾けたら、まずこの曲をコピーしてみたい。

・champagne supernova / oasis
唯一の洋楽。oasisは大学2年生くらいから聴き始めたが、初めて聴いたとは思えない温かさや安心感を覚えた。この曲は特に温かく、歌詞の意味はひとつもわからないが泣きそうになってしまう。

・赤いタンバリン / BLANKEY JET CITY
名曲。結婚式で流したい。「流れ星一個盗んで目の前に差し出した時の顔が見たい」なんて言われてみたい。

・ワンルーム叙事詩 / amazarashi
戦う弱者の味方ソング。就職活動のときはめちゃくちゃお世話になった。サビで燃えるのは部屋ではなく、いつも自分の心である。

・スーパースター / 東京事変
凜として美しい椎名林檎という女性が、憧れの人を想って書いた歌詞。私もこんなふうに誰かを追いかけることによって、生かされている。


「好き」な音楽、「カッコイイ」音楽は他にもたくさんある。ここに挙げたのはあくまで、私の4年間の青春に寄り添ってくれた音楽、である。


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花粉症をきっかけに書き始めた文章だが、気付けばかなり長くなってしまった。ここまですべてを読んだ方は少ないと思うが、私のノスタルジーの一部をこうして形に残せたことに、少し安堵している。
これによって明日からの、社会に放り出されるまでのカウントダウン期間が、また少し違った見え方になることを、少しだけ期待している。

ここに書き切れなかったことは、別個で少しずつまた文章にしていけたらと思う。

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