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【試読】The Entertainer

「ピアニストは3人来るけど、俺はあんたのがいちばん好きだな」
 ホテル最上階のラウンジは私の職場のひとつで、演奏を終えてからバーカウンターでぼんやり夜景を眺めるのがささやかな楽しみだった。働いたあとの1杯は福利厚生に含まれていて、よく冷えた白ワインをひとりで静かに舐める。

 スタッフやバーテンとは、業務連絡を除いては無愛想にならない程度の言葉しか交わさない。常時数人のピアニストを雇用しているが、入れ替わりが激しく、もっとも長く安定しているのが私らしい。従業員として扱いやすいのだろう。

 互いに必要以上に干渉せず、シフトを融通し、リクエストをこなし、1杯ひっかける。いい職場だ、と思っていたのだけれど。

「それ、全員に同じこと言ってるでしょう」
 中年のバーテンは、怯まず自信に満ちた笑みで私を見ていた。

 骨が太く、筋肉質な身体付きだ。髪の毛をオールバックにして、浅黒く日焼けした肌を惜しみなく露出している。趣味はサーフィンかバイクといったところで、大型の狩猟犬を飼ってる。

 どんな場でもどっしり構えており、女に連れ出されればジャズライブにも行くだろう。鷹揚な態度で観賞し、大きな手で気前のいい拍手を打つが、ミシェル・ルグランが誰なのかは知らない。ぜんぶ妄想と偏見だが、半分ぐらいは当たっている自信がある。

「つれないな。どうしたら信じてもらえるかな」
「本心だったとして私が言えるのは『ありがとう』だけよ。すこしは微笑んであげるかもしれないけど」

 などと言っているそばから「失礼、話しかけても?」と、ラウンジの利用客が声をかけてきた。「little black dressのファンなんです。サブリナさんのソロを聴きたくて、来ちゃいました」

「そうなの? ありがとう」
 ごく自然に笑みが浮かび、LPのジャケットにサインをねだられて快諾する。lbdはマニア需要を見越し、少数ではあるがCDと同時にレコードも発売する習わしになっている。単なるコレクターにしろ音響に凝っているにしろ、レコードをお持ちということはまあまあ気合の入ったファンだ。

 すこしの雑談を交わし「またお会いしましょう」と握手を交わす。ファンが立ち去ったあと、バーテンは嫌味っぽく片眉をつりあげて「手厚いじゃないか」と言った。

「ここでの私の仕事はバックグラウンド・ミュージックにすぎない。気持ちよくお酒を飲んだり、楽しくお喋りしたりするための装置でしょ。それをバンドのファンがわざわざ聴きに来たんだから、サービスぐらいするわよ」
 バーテンは関心があるのかないのか、間延びした相槌を打つ。

 胸ポケットについた、金メッキの名札にそれとなく目をやる。光量を抑えた照明が鈍く照り返し、読み取るのに手間取った。ブルーノというらしい。半年ほど前から見かけるようになったバーテンだが、今までは挨拶を交わし、酒を出してもらうだけの関係だった。無口な男だから、気をつかわなくて楽だと思っていたのに。

「芸名を使うんだな、エリザ?」
「気やすくファーストネームを呼ばないで」
「謝るよ、ミス・バーネット。サブリナの由来は?」
「『麗しのサブリナ』」
「ヘップバーンとボギーの映画か」
 ブルーノは映画のサブリナを真似て「エッグ」と発しながら生卵を割って見せた。溜息が出る。エッグノックの気分ではない。


「やっぱり勘違いじゃなかった。君のピアノがいちばん好い」
 次にそう言われたのは、ライブハウスの裏口だった。ラウンジでもバンドでも、クリスマスらしいナンバーばかりをこなす日々を終えてひと段落、という気持ちのところに現れた。

 行儀のいい客が集まるハコなので、出待ちをしていたのはブルーノだけだ。私のあとから退出してきたメンバーたちが何かを察して「お先でーす」と普段は聞かない台詞を発しながらそそくさと帰路につく。

「目的が分からないのだけれど。セックスがしたいなら他をあたって」
「ずいぶんはっきりした物言いだな。気の強い女性は好きだよ」
「あなたシュデストの出身?」
「俺はこのへんの生まれだけど、両親はあっちだ」

 あいかわらず余裕を感じさせる微笑みを湛えている。路地裏の心もとない街頭が、男の顔に影をつくる。

「純粋にミス・バーネットのピアノが好きなんだよ。俺は職場の人間とは仲良くしたいたちでね。下心がまったくないとは言えないが」
「それで、出待ちまでして何をご所望なの」
「なんてことない。この辺りにウイスキーの品揃えのいいバーがあるんだ、奢るよ」

    ◇

 私のピアノの先生は、隣家のおじさんだった。隣といっても広大な葡萄畑を挟んだ先の家だ。近所中どこの家もワイン農家で、うちも例外ではない。

 ほとんど食堂と言っていい広さの、ダイニングの隅に置かれたアップライトピアノは、長いこと調度品と化していた。
 ひと昔前、ティーンの女の子がピアニストを目指すテレビドラマが大流行し、それにハマった叔母がせがんで買ってもらったらしい。彼女が家を出て以来、誰もピアノに触れなかった。

 家族経営の農家で、私たちは常に親戚一同と行動を共にしていた。ひたすら騒がしかった。
 食事時など、全員がひっきりなしに好き勝手喋る。大人は蔵から持ち出してきたワインをひっかけてるから声がデカくなり、子供は酔っ払いに負けじと金切り声をあげる。コルクを抜く浮かれた音が、高い天井に響く。

 私は幼少期から妙に冷めていて、ぼんやりしていた。この家系では稀な性格のようで、いっときはどこか身体に悪いところでも、とヒステリックに心配されたものだ。医者にすこぶる健康だと診断されてから、みんな私への興味を失った。

 だからみんながはしゃいでいる場で、ひとりで黙ってぼんやりしていても差し支えなかった。
 きょうだいは上に姉がふたりいて、頼んでもいないのに勝手に世話を焼かれては「もう、本当にどんくさいんだから」などと言われる。自己主張をぶつけ合っては叩く蹴るの喧嘩をして泣き喚く従兄たちのことを、何よりもみっともなく感じていた私は、少々腑に落ちなくても反論を飲み込んでいた。

 そのせいで大人たちには引っ込み思案でおとなしいと思い込まれていたが、その評価をひっくり返す利点もないので、やはりぼんやりしていた。そういう子だった。

 唐突にピアノへ関心が向かったのは、7歳の時だ。
 それまでは動いていない時計や、埃をかぶった造花が活けられた花瓶などを寄せ集める奇妙なテーブルぐらいにしか見えていなかった。食事時にぼんやり観察しているうち、学校に置いてあるピアノとシルエットが同じことに気づいたのである。

 学校にしかないと思っていたものがうちにある。異物だ。
 蓋を持ち上げようとして叶わず、母に鍵の在り処を聞けば「エリザはやっぱり違うわねえ」と呆れたように笑った。「違う」を歓迎しているのか疎んでいるのか、わからなかった。

 鍵盤を開けるための鍵は行方不明だった。ふだんは主義主張をしない私がピアノを弾きたがっているので、誰もが家じゅうをひっくり返して探してくれた。それでも見つからずじまいで、母が首都に住まう叔母に訊ねたところ「知るわけないじゃない、そっち離れてから弾いてないのよ」と苦笑されたという。
「ジョシュアさんって今もいる? あたってみな」と付け足して。

 いま思えば、なんて指導者然とした名前だろう。
 言うまでもなく、隣家も家族経営でワインを作っている。出会った頃、彼はすでに初老を過ぎたおじさんだったが、未婚を貫いていた。 

 当時ジョシュアの甥はすでに成人しており、家督を継ぐ気満々で、首都の大学で経営マネジメントを履修してそろそろ帰ってくるとかで、頼れる存在として一帯の葡萄畑に名を轟かせていた。独身の叔父さんは気まずい立場だったろう。

 妻子も持たず実家暮らしとあれば、この田舎では「悪い人じゃないんだけどね……」と目を逸らされる存在だった。本人は気にしているのかいないのか、のんびりと葡萄の世話をして暮らしていた。

 母も当初は難色を示した。それでも、ぼんやりした娘が興味を示すものができたし、自分の妹が世話になった人物であるのだからと思いなおし、彼を家へ招いた。

 ジョシュアは栓の空いたワインを提げてあらわれた。よれよれのニットに擦り切れたジーンズ、葡萄畑で作業するときに履く土だらけの長靴。それが彼の正装だ。
 ひょろりと背が高く、下っ腹だけたるんだアンバランスな身体付きで、歩き方が独特だった。白髪交じりの髪を短く刈り込み、丸いレンズの眼鏡をかけて、いつもへらへら笑っていた。

「やあやあ、こんにちわ」
 その日もへらへらしながらうちへ上がりこみ、アップライトピアノを前にすると、感慨深げに嘆息した。

「やあやあ、久しぶりじゃあないか。どうしてた?」
 ジョシュアは両手をめいっぱいに開き、ピアノにハグをした。ほとんど張り付いたようにしか見えなかったが、懐かしい友達にするハグだった。後ろから私とその様子を見ていた母は「埃を払っておいて正解だったわ」と小声で呟いた。

 どういうわけか鍵盤の鍵はジョシュアが保管していて、鍵を差し込むとすんなり開錠した。蓋を持ち上げると、赤い保護布がかけられており、取り去るとつやつや光る鍵盤が露わになった。
 あの時ほど、ピアノを美しいと思ったことはない。


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