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初めて歌舞伎を観て心震えた話〜『SANEMORI』〜


はじめに

新橋演舞場で行われていた、『初春歌舞伎公演 市川團十郎襲名記念プログラム SANEMORI』を観劇してきました。

これが私の歌舞伎デビューとなったのですが、もう二度とない『初めての感動』を少しでも閉じ込めておきたくて、拙い文字に託してその思い出を綴らせていただこうと思います。

観劇のきっかけ

この『SANEMORI』は、襲名記念という名の通り、十三代目市川團十郎白猿さんが演目の主軸である実盛役を演じられているのですが、加えて物語の主要な役である、義仲・義賢役をSnowmanの宮舘涼太さんが務められました。

私は何を隠そう宮舘さんのファンなので、かねてより「和に関するお仕事をしたい」と言っていた宮舘さん念願の大舞台をこの目で見届けたい、という思いがまず第一にありました。

しかしそれだけでなく、ずっと歌舞伎を『理解して観る』ことへの憧れがあったからでもありました。

様々な規制が緩和されつつあるとはいっても、まだまだ流行病が猛威を振るう現状、片田舎に住む臆病な私にとって、東京へ行くということはまだ少し勇気のいることでした。

それでもやはり、応援する人の勇士を見たいという私自身の願いと新しい世界への好奇心は抑えきれず、二度の東京行きを決めたのです。

歌舞伎というエンターテイメント

きっかけこそ宮舘さんではありますが、歌舞伎デビューをするからには、初心者なりに出来る限り歌舞伎そのものを楽しみたい!と思い、本屋で手に取った歌舞伎入門本を購入しました。

本を読んでいる時点で、歌舞伎の型や世界観に魅了されつつあったのですが、実際に観劇してみると、そのエンターテイメント性に衝撃といっていいほどの感動を覚えたので、その場面を添えて感想を残したいと思います。

空間の使い方

いよいよ開幕のとき。拍子木が鳴り響き、静かに会場の灯りが落ち、伴奏音楽が流れ出す…。
この瞬間、胸の高鳴りとともに、一気に平安時代末期に引き摺り込まれたような感覚に陥りました。

序幕第一声、宮舘さん演じる義仲が客席に向かって台詞を放つのですが、ここでは会場に反響する地声の様も相まって、まるで私も義仲の軍勢の一員であるような気持ちになりました。

花道を行く腰元たちや馬に乗る実盛の様子は、私も道中で一行に出会したような気持ちになりました。

また、大詰めの篠原の戦いの場では、客席に降りて立回りをする演出があったのですが、『俳優が近くに来てくれる』という高揚感はもちろん、客席を走り回ることで立回り自体の臨場感も増し、その迫力を肌で感じることが出来ました。

さらに、これは道具の話になってしまうのですが、序幕の義賢の大立回りでは、戸板倒し・梯子・仏倒れなど、アクロバティックな見所がたくさんあります。

一歩間違えば不自然になりかねない演出にも思われますが、大道具や小道具として自然に在る戸板や階段を巧みに使った演出は、役者の演技を引き立てており素晴らしいと感じました。

こういった演出は『写実的』ではないと思うのですが、いわゆるデジタルネイティブ世代で、映像にしても何にしても、より『リアル』なものを追求する価値観の中で育った私にとってある意味新鮮で、大技に挑む役者の気迫も相まって非常に胸に迫るものがありました。

他にも、実盛が討たれた後に義仲らと言葉を交わす演出や、大円団にて義仲が白旗を振る演出、幕切れ前に義仲と実盛が只ずむ演出などは、自らの意思を義仲に託してこの世を去る実盛と、実盛の思いを背負ってこれからを生きていく義仲の精神的な関係性が反映されているように感じ、さらにどっぷりと物語に没入してしまいました。

物理的な近さだけでなく、こういった数々の会場を巻き込むような演出によって、『お芝居を観た』というよりも、『物語を体感した』という感覚に近く、そういった点だけでも十分歌舞伎に魅了されました。

化粧と衣装

予習をする中で、歌舞伎の化粧や衣装には、全て意味があるということを学びました。
これはまさしく初めてならではの感動だと思うのですが、予習で見た通り、庶民である小まんや九郎助の着物は石持という丸紋になっていたり、石山寺帰りの腰元たちの帯は左側が上の立て矢結びになっていたり…と、学んだ知識に気が付く度にいちいち感動してしまいました。(笑)

特に印象に残っているのは、義賢の大立回りの場面です。
立回り前は病人を表す病鉢巻に重々しい着物姿で、立回りの場面から逆立った獅子のような鬘に変わり隈取の筋も増え、見た目だけでも後退りしたくなるような迫力です。

化粧や衣装は役の心情を表現する、と頭では理解していたのですが、死闘を繰り広げる義賢の姿を観たときに、心情を表しているのはもちろん、化粧や衣装の変化が役者自身の闘志をも奮い立たせているように感じ、歌舞伎というものが総合芸術であることを再認識し、その奥深さにさらに興味が深まりました。

台詞と音楽

演劇やミュージカル、また映画など、芝居と音楽が平行することには馴染みがありましたが、義太夫のように第三者が語り手となり物語を進めるというかたちはあまり馴染みがなく、ましてや現代語ではないので、その雰囲気に付いていけるかというのが一番不安な要素でした。

しかし、台詞の全てが理解できたわけでなくとも、物語のあらすじがわかっていれば意味合いは理解することができ、また音楽や唄の抑揚で物語により感情移入することができました。

また義太夫の美しさはもちろん、語りの迫力がもの凄く、二度目の観劇時には太夫の方も双眼鏡で覗いてしまうほどでした。

役者の台詞回しや見得、立居振る舞いの全てが、ツケなどの効果音を含めたあらゆる音や音楽と一体となっており、役者と太夫が互いに息を合わせている空気感も含めて、言葉を超えた感情の表現に胸打たれました。

生の芝居

これは他の舞台にも共通のことだと思うのですが、私は『舞台はなまもの』であることを感じられる瞬間が大好きです。

この『SANEMORI』は、それを痛いほど感じた舞台だったように思います。
一つ一つ挙げようとすると枚挙に暇がないですが、特にそれを感じたのは、やはり『義賢最期』の場面です。

ここからは、『宮舘涼太』を贔屓する者として、どうしても宮舘さんの話が中心になってしまうのでご勘弁ください。

病に冒された体で無数の敵に薙刀を振り回して立ち向かい、徐々に荒く乱れていく呼吸、立回り自体の過酷さをも物語る大量の汗、最期の力を振り絞るような痛々しくそれでも力強い声…その全てが空気を伝って波のように押し寄せて、涙せずにはいられませんでした。

忘れられないのが双眼鏡を覗いたときに見えた宮舘さんの姿で、その表情はほどんど白目を剥くほど歪み、汗で化粧はぐちゃぐちゃで、今までに見たことのない宮舘さんの姿でした。白い着物が隈取の赤色で所々染まっているのも美しかった。

観劇した二度とも涙してしまったのですが、二度目も不思議と新鮮な感動を覚え、それは宮舘さんが毎公演、義賢として共に闘い命を絶やしていたからなんだと思います。

日頃、宮舘さんが『アイドル』として見せてくれる、セクシーでロイヤルで美しい姿が私は大好きですが、俳優として恐れずに殻を破って、泥臭さまで伝わるほど真っ直ぐに思いを伝えてくれる、そんな新たな一面にも惚れ惚れとしました。

ファンとは応援しているだけなのに、勝手な感情移入をするものだと呆れるのですが、宮舘さんが後にブログで語られているように、義賢として闘う姿に『宮舘涼太の生き様』をどうしても重ねてしまい、涙が止んでもまた涙してしまいました。

他のお役にも少し触れると、全ての役に好きだなと思えるところがあり、小まんが素手で闘い『ふふふ』と微笑むところや、威厳ある実盛が太郎吉に『つねつね』をするところ、瀬尾十郎が自ら首を掻き切るところでは、重みがある演技に胸が締め付けられました。

劇場の距離感や、先に述べた空間の使い方なども相まって、常に役者の息遣いを感じられた3時間は、とても贅沢な時間でした。

今だからこそ観たい歌舞伎

現代を生きる私たちは、SNSなどを通してたくさんの言葉に触れて生きています。
そこには『それらしい』言葉がごろごろと転がっていて、すぐにわかったような気になり、時にわかってもらえたような気になって安心してしまいます。

ですが人間である以上、誰しもが言葉のもっと手前に、その人だけの感情があるはず。

歌舞伎を観ている間、時には音楽に乗せて、時には役者の表情や振る舞いに乗せて、誰かの言葉ではなく自分だけの感覚で、自分だけの感情を昇華することができたように思います。

歌舞伎には、空間や衣装や音楽、言葉を超えた幅広い型や役者の芝居の中に、観客自身の感情を委ねられる、良い意味での隙と懐の深さがあると感じました。

このことは、自身がSNSを通して行けなかった舞台の様子を知って行ったような気持ちにさせてもらったり、今このように文章を書いたりしているからこそ、心に留めておきたいとも思っています。

さらに、これは今回の演目に関してですが、現代では『恩を返すために命を絶つ』といったことは親しみのない価値観で、そのような世に戻ってはならないとも思います。

しかし、そういった時代の物語でありながら、源氏と平氏の間で生きる人々の姿に、価値観が多様化し信じるものを見失いそうになる現代の人々と似通ったものを感じ、自身の信念を貫く生き様に勇気をもらいました。

敷居が高いイメージがあった歌舞伎ですが、心身ともに観客を置き去りにしない、画面越しに何でも見られる今だからこそ生で見たい芝居だと感じました。

私がエンターテイメントを愛するわけ

日常の中で、『今私幸せだな!』と思うことって、そうそうありません。
ですが幕切れになり、カーテンコールで精一杯の拍手を送りながら、『今拍手の一部になれていることが幸せ!』とはっきりと思いました。

全人全霊で板の上に立っている役者を見ると、それだけで私も頑張ろうと思います。血の通った素晴らしい舞台を見ると、それだけで私も何か成し遂げられそうな気持ちになります。積極的に自分の人生を生きようと思うことができます。

頑張ることや何かを成し遂げることが美徳だとは思っていないし、苦しむことや消極的に生きている時間も、大切にしたいと私は思います。

それに、積極的に生きようと思って私がすることと言えば、ちょっと頑張って自炊をしようとか、いつもより人の目を見て話を聞こうとか、丁寧に字を描こうとか、そんなことだと思うのです。

でも、些細でも積極的な生があるからこそ、悩むことも苦しむことも、全部含めて大切にして生きていける気がします。

感情を委ねさせてくれてありがとう、絶え間ない努力をもって舞台に立ってくれてありがとう、明日を生きる力をくれてありがとう、全部ひっくるめて素晴らしい時間をありがとう、そういう思いを少しでもたくさん伝えたくて、手が痛くなるほど拍手を送るし、これからもたくさんの拍手を送りたいのです。

さいごに

ここまで、長い文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。
歌舞伎を愛する方々に、『SANEMORI』という作品を通して、歌舞伎に心掴まれた人間がいるということが伝わっていたら嬉しいです。
また、同じようにエンターテイメントを愛する方々に、良い方向に感情の共有が出来ていたら嬉しいです。

この時代に生まれ、この作品に立ち会えた私は幸せ者です。
これからもエンターテイメントの未来が明るいものでありますように!















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