勤務校あるある
グループワークという名の完全分業
勤務している日本語学校の困ったあるあるを紹介しよう。
その現象は、ある国からの留学生が多いクラスに現れる。その国をA国とする。得に、本国で初級を履修し終えて、初中級以上のクラスにポンと入ってきて、A国人が多いクラスが出来上がった時に多発する。全員がA国人となると確率はさらに上がる。
何が起こるか……ペアワーク、グループワークができないのである。
できないと言ってもピンとこないと思うので、典型的な例を書いてみる。
講師が指示を出す「では、隣の人と練習しましょう」「隣の人と答え合わせをしましょう」「グループで話し合ってください」などと。
学生は、まっすぐ下を向き、し~ん。
新進の講師は「話すのが早すぎたかな」「ことばが難しかったかな」などと考える。いつまで待ってもし~んなので、講師は次のことばを発する「わかりましたか」。「は~い」と返ってきたりする。
一定の時間がたち、次の行動に移る。発表させるのだ。立候補を募っても、そんなクラスは反応が鈍い場合が多い。当ててみると、答えは合っているし、しっかりしゃべる。日本語のレベルは低くないのだ。
講師????? さっきのだんまりは何だったのか……。
そんな日が続き、やがて講師は知ることになる。日本語がわからないのではなく、ペアワーク、グループワークのしかたがわからない、ということを。そしてさらに知る。ほかのクラスの講師も同じ悩みを持っているということを。
A国の教育とは、ほとんどの年月が「完全な講義型」つまり机上の勉強100%だったと聞いている。5歳くらいから18歳くらいまで、教室で黙ってすわって講義を聞くのみの毎日が続き、暗記・答えの選択が勉強のほとんどである。5教科以外の科目がない場合も少なくない。
ということは、理科の実験で相談することも、家庭科の料理で手分けすることも、体育の球技でパスすることも、合奏も合唱も、お互いをスケッチすることも、学級会で議論することもないまま18歳になったのだ。
基本的にクラスメートと話す機会がない15年余である。
そんな学生が日本に来て、講師から「はい、グループワークしなさい」と言われても、たとえ同国人同士であっても、出すことばも態度も、彼らの脳からすっぽり抜けなのだ。
本人たちは本当に困っている場合がある。まじめな学生ほど困っている。勤務校はどの講師も「話し合いなさい」と言う。どうしたらいいかわからない。でも講師の指示は絶対だ…。
彼らが困ったあげく、苦肉の策で繰り出すグループワークが、完全分業である。
たとえば、問題がある。一つの大問の中に小問がいくつかあるとする。正解は何か、その理由は何か、グループワークで話し合って発表しなさい、などと指示を出すとどうなるか、小問の1番Aさん、2番Bさん、……と分業し、答えのすり合わせをしないままに時間をすごし、やがて一人ずつ発表する。1番についてBさんに質問を出してみたりすると「それはAさんがやったのでわからない」などと堂々と言う。
その問題をグループ全員で検討して納得して発表するという形式が想像できないのだ。もちろん連帯責任などどこにもない。
講師側は、ははん、これはできないクラスだ、と見抜いた場合は、さりげなく、次のような指導をする。
「はい、ペアワークしなさい」と言った後「隣の人に、この答えは何ですか」「答えは1番です」「それはどうしてですか」「いいえ、私は反対です」「どう発表しましょうか」……本当に具体的なセリフを、ときには板書して示してみせる。しかも1回では済まなくて、繰り返し繰り返しだ。
時には連帯責任という意識も話すし、上に書いたような分業はグループワークとは言わないとも説明する。
司会を決めて、発表係や記録係を決めて…などと、まるで小学生のような指示を出すこともままある。
その結果どうなるか、変わるクラスも出てくるが、あまり期待することはできない。学生たちが素直に受け入れれば進展もあるが、講師が講義をするのではなく、自分たちで調べて発表することが授業である、という形式に強硬に反対する学生が拗ねまくり逆らってくる場合もあるからだ。
ではペアワーク、グループワークができなくてもいいんじゃないか、という考えについてであるが、勤務校が、日本の社会、またはグローバルな社会に出て行く社会人を育てたい、とうたう以上、講師側では避けて通れない課題となっている。
社会に出て仕事をする場合、個人プレーだけでは済まないことは、言わずもがなであるし。
ただ、15年余もの年月で培った意識を、勤務校に通う、長くて2年で塗り替えることは、不可能に近い困難だし、特効の解決策は見当たらない。けれども、言い続け示し続けて、若い彼らの育つ力を信じるしかないと思っている。悩みながらであるが。
最後に、
A国人以外なら、ペアワークもグループワークもできるんだよ~ん(笑)